ippo2011

心のたねを言の葉として

強制はされていないのに、日本人は驚くほど似たような行動をとり続けた 磯野真穂

「 コロナ禍と出会い直す 磯野真穂の人類学ノート」

 

 いうまでもなく新型コロナのパニックもこのパターンをたどった。場合によっては感染リスクを上げることすらあるパーティションの3年間にわたる設置はその最たる例だろう。
 またこれらに共通する事象として、上からの規制は弱いのに行動は画一的かつ極端になることが挙げられる。例えば日本脳炎ワクチンやHPVワクチンでとられた「積極的勧奨の差し控え」は、「積極的なお勧め」を政府が差し止めただけで接種が禁止されたわけではない。しかし両ワクチンにおいて接種率は激減し、HPVワクチンにおいてはWHOから注意喚起がなされるほど長期間の接種率低迷が続いた。コロナ禍渦中の「自粛の要請」も全く同じである。強制はされていないのに、日本人は驚くほど似たような行動をとり続けた。「和をもって極端となす」と私が名付けたゆえんである。
 それではこのようなパターンを規定する日本人の思考の癖はいかなるものなのか。引き続き「文化とパーソナリティ」を参照したい。

 

状況が「リセット」されても、影響されない型
 先に紹介したベネディクトは、著書『文化の型』のなかで人間集団はそれぞれある「型」の元に統合されているため、その集団の中で行われている何事かを理解するためには、それだけを抜き出して観察しても意味はなく、常にその型の中で役割と価値を理解せねばならないと説いた。
 しかしこの型は壊れてしまう場合もある。ベネディクトはそのことをディガー・インディアン(カリフォルニア先住民)の首長・ラモンの言葉をもって次のように比喩的に解説した。
 「はじめに神はコップをすべての人々に与えた。粘土のコップである。そのコップから人びとはそのいのちを飲んだ」
 「みんな水につかってしまった。でも連中のコップはそれぞれ別だった。わしらのコップはいまではこわれてしまった。それは死んでしまったのだ」
 人々はそれぞれ別の形のコップ(=文化の型)を神から与えられ、そこに注がれた命を飲んで生きている。しかしディガー・インディアンのコップは欧米文化の侵食を受けて壊れてしまった。
 この話を引きつつベネディクトは、「(コップの)かたちこそが根本」であり、そのコップが壊れて別の形のものに変えられてしまえば、人びとがたとえ生きていても、その人たちの生の形は別の何かになってしまうのだと述べる。
 それでは日本はどうだろうか?
 丸山眞男土居健郎、中根千枝といった日本の政治思想及び日本社会の論客が論じてきたのは、江戸幕府が倒れるとか、天皇が君主でなくなるとかいった国の形が根本から変わるような事態が生じても、日本人の「コップ」はいまだ形をとどめている、つまり別の何かにはなっていないという点だ。アメリカの評論家モリス・バーマンは『神経症的な美しさ-アウトサイダーが見た日本』でこのことを次のように述べる。
 「日本の国民心理が『リセット』を特徴にするにもかかわらず、『容器』ないし『文法』は奇妙なことに影響を受けないのである」
 ベネディクトのいう「コップのかたち」、バーマンがいう「容器」ないしは「文法」とはどのようなものだろう。例えば連載初回で私は、先のバーマンから下記の一文を引用した。
 「日本社会はその仕組みからして、真剣に現状の問い直しを行う機構が備わっておらず、物事が一旦(いったん)ある方向に動き始めると、基本的に行き着く先まで行ってしまうより他ないとする丸山(そして土居と中根)の主張を肯定しておきたい」