「知らなければ、何もはじまらないーー誰も知らない日本人虐殺、福田村事件をなぜ映画化したのかーー」 井上淳一
はじまりは台風19号だった。
2019年10月12日、長野県を襲った台風19号は翌13日、千曲川を決壊させ、その流域に甚大な被害をもたらした。その一週間後、僕は荒井晴彦さんと長野市内のミニシアター・長野ロキシーを訪れた。荒井さんの脚本・監督作品『火口のふたり』上映後にアフタートークをやるためだ。
トークが終わり、長野の友人・若林正浩さんが被災地を見に行きませんかと言う。被災地を見るという行為に躊躇いがなかった訳ではない。しかし、知らなければ何も始まらない。彼の運転する車で我々は千曲川沿いを走った。家々の壁に水がこんな高さまで来たという痕が生々しく残っている。流木に廃棄物の山。鉄橋が落ちている。若林さんが音楽をかけた。それが福田村事件を歌った中川五郎さんの「1923年福田村の虐殺」という24分にも及ぶ曲だった。
荒井さんも僕もショックを受けていた。事件そのものにもだが、自分たちがこの事件を知らなかったことに対してだ。二人とも関東大震災の朝鮮人虐殺に関してはそれなりに勉強してきたつもりでいた。実際にシナリオにも書いていた。
それは『白磁の人』といって、植民地下の朝鮮で民族服を着て朝鮮語を話し、李朝白磁の価値を見いだしたとされる浅川巧という実在の人物を描いた映画だった。神山征二郎監督で、脚本は荒井さんと僕。「植民地下の朝鮮でこんなにいいことをした日本人がいましたというだけの話じゃダメだ、悪いことも描かないと」と関東大震災の朝鮮人虐殺を書いた。それがスポンサーの逆鱗に触れた。スポンサーは「こんなにスゴい日本人がいた」をやりたかったのだ。結局、脚本も監督も替えられ、映画は作られた。虐殺は台詞でサラッと触れられただけだった。15年前のことだ。
そんな我々が福田村事件のことを知らなかった。もちろん、中国人や日本人が朝鮮人と間違えられて殺されたという事実は知っていた。なのに、具体的なことを知らなかったのだ。荒井さんがポツリ言った。
「これ、映画にしよう。知った以上、何かやらないと」
しかし、僕は躊躇った。『白磁の人』はたった1シーンのために降ろされた。いや、今作られている日本映画を見て欲しい。毒にも薬にもならない映画が溢れ、社会の闇を正面から描き、世の中を撃つ映画はほとんどない。映画に限らず、この国ではなぜか表現が政治性を持つことがタブーで、過去の黒歴史とも向き合わない。いや、インディーズにはかろうじてある。自分たちで集められる範囲の低予算で作る分には何をやっても構わない。実際、そうやってお金を集めて、アジアでの加害行為や天皇の戦争責任も描いてきたし(『戦争と一人の女』)、原発(『大地を受け継ぐ』)も改憲(『誰がために憲法はある』)もやってきた。しかし、今回ばかりは事情が違う。時は大正。行商の道中があり、関東大震災があり、虐殺シーンでは大勢のエキストラが必要だ。お金がどれだけあっても足りない。そして、そんな製作資金を出すスポンサーなんて、いるはずがない。福田村事件は朝鮮人虐殺と被差別部落という、この国が描いてこなかった「危険な要素」がふたつもある。しかも、荒井さんは「監督はお前がやれ。お前もこの辺でちゃんと勝負して代表作撮らないと」などと言っている。僕が監督で何億円も集まる訳がない。
悩んだ。真剣に悩んだ。我々が知らなかったのだ。多くの人も知らないに決まっている。我々が作らなかったら、こんなこと映画にしようなんて人が他に出てくるはずがない。荒井さんの言う通りだ。知った以上、何かやらないと。我々のように伝える手段を持っている人間は特に。荒井さんにやると返事したのは三日後だった。
当然、脚本は自分たちで書くものだと思っていたら、佐伯俊道さんに頼もうと荒井さんが言う。佐伯さんは荒井さんとは学生運動時代からの仲間で、共作もしている。また佐伯さんはテレビを主戦場にしていて、沖縄戦を舞台にした『白旗の少女』や『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』など硬派な社会派実録ドラマを何本も書いている。たぶん佐伯さんが書いた方がより多くの人に受け入れられやすいものになるという判断なのだろう。こうして、荒井さんがプロデューサー、脚本が佐伯さん、監督が僕という座組で企画が動き出した。
年が明けて、2020年1月。荒井、佐伯、井上の三人は事件の現場である福田村を訪れた。昔の脚本家は「時代劇を書くなら、城跡でいいから行け」と言ったらしい。まずは現場だ。しかし、問題があった。福田村事件には極端に資料が少ないのだ。いや、ないに等しい。被害者が沈黙したというのもあったろう。加害者側の福田村史にも野田市史にもほとんどその記述はない。唯一、辻野弥生さんという地元の作家が「福田村事件」という本を出しているが、その辻野さんにしても分からないことが多いらしい。この日も辻野さんの案内で関係各所を見て回った。
2月、『火口のふたり』でキネマ旬報日本映画ベストワンに輝いた荒井さんの授賞式があった。翌日、荒井さんから電話があった。キネマ旬報のベストテンは劇映画と文化映画に別れているのだが、文化映画のベストワンが森達也さんの『i-新聞記者ドキュメント』で、授賞式の控室で初対面の森さんに福田村事件を映画化すると話したら、森さんが「僕も劇映画で福田村事件をやりたいと思っていた」と言ったという。荒井さんが森さんに進行中の企画を話したのには理由がある。我々が長野で聞いた歌は、森さんが福田村事件のことを書いた文章に中川五郎さんがインスパイアされて作ったものだったのだ。この時点で、森さんも我々も一円たりとも製作費の目途はついていない。しかし、思った。僕が監督ではなく、森達也劇映画第一回監督作品ならば、お金が集まるのではないかと。しかも、森達也監督の方がより多くの人に福田村事件が届くのではないかと。我々は中川さんの歌を聴いて事件を知った。中川さんは森さんの文章を読んで知った。そういう意味では、森さんが大元なのだ。僕は森さんに監督を譲ることに決めた。
こうやって『福田村事件』は動き出した。脚本作りも撮影も仕上げも信じられないくらい難航した。結局、荒井さんも僕も脚本に名を連ねることになった。編集もやり直した。ダビングもやった。その結果が湯布院映画祭ではじめてお披露目される。ワールドプレミアだ。最初に「1923年福田村の虐殺」を聴いた時のようなインパクトを我々は残せたのか。何より映画として面白いのか。恐怖しかない。