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心のたねを言の葉として

電通に丸投げされた「持続化給付金」の中抜き実態

電通に丸投げされた「持続化給付金」の中抜き実態「一般社団法人」を隠れみのにした極秘スキームを暴く
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.02.27

 

smart-flash.jp

 

 およそ3年間にわたって霞が関を担当した毎日新聞記者が、大手広告代理店がからんだ「一般社団法人の中抜き」の実態を明かします。

 

 

 コロナ禍で緊急事態宣言が発令され、収入が減った中小企業、個人事業主らに経済産業省から「持続化給付金」が配られた。

 

 持続化給付金の事務委託を巡っては、申請開始まもなく、一般社団法人「サービスデザイン推進協議会(サ推協)」から大手広告代理店の電通と、その子会社などに再委託と外注を繰り返す構造が浮き彫りになった。不可解だったのは、サ推協をピラミッドの頂点とする委託スキームの中身がまったく見えないことだった。

 

 持続化給付金は、経産省電通や人材派遣大手のパソナなどで構成するサ推協に769億円で委託。一般競争入札だったが、事業者側に事前ヒアリングを実施しており、出来レースに近かった。

 

 サ推協は委託費の97%にあたる749億円を電通に再委託し、さらに電通電通ライブなど子会社に計645億円で事業を外注していた。結果として、電通に残ったのは計104億円。

 

 電通と子会社ぐるみによる委託費の「中抜き」が疑われ、野党は衆院予算委員会で、業務委託や外注が繰り返されている点について、「責任の所在、透明性がはっきりしない。誰がどこで何をやっているのか」と批判した。

 

 国会答弁などで明らかになったのは、電通子会社などからさらに複数社へ再委託や外注が繰り返されていたことだ。外注費の10%が「一般管理費」として、利益に算入される仕組みが次々と明らかになった。

 

 電通が最も多く外注した子会社は電通ライブで595億円。その下流ではパソナ(170億円)や大日本印刷(102億円)など計13社に外注されていた。外注先も大半の業務を別会社に回していた。

 

 不思議なのは、このピラミッド構造の頂点に、なぜ「一般社団法人」が置かれているかだ――。

 

 一般社団法人は、公益法人(旧社団/旧財団法人)で数々の不祥事が発生したことを受け、公益法人改革関連法が施行された2008年12月以降に広がった。事業内容に制限がなく、営利目的の事業も可能。設立したい人が2人以上いれば法務局への登記だけで設立できる。

 

 かつて、公益法人は、所管官庁が厳しく監督していた。ただ、手取り足取り指導するうち、天下り先と化した法人に税金から成る「埋蔵金」がため込まれ、納税者の知らないところで無駄な公金を使う「見えない政府」化が進んだ歴史がある。

 

 その教訓から新しい制度では、国が監督するのは公益性の認定を受けた公益社団法人のみとし、一般社団法人は行政の監督下に置かないことにした。

 

 一方で、一般社団法人が予算執行を担う場合の監視は難しくなった。情報公開が社員や債権者のみを対象としているためだ。サ推協の情報開示文書には黒塗りが多いが、説明義務が法令上、存在しないことに由来する。そして、監視の目が行き届かないことに目をつける人たちがいるのは当然だった。

 

 足元では一般社団法人を隠れみのにした不正が横行している。

 

 2013年には東日本大震災の復興予算の流用先となった法人の不透明な実態が問題となり、法人を使った課税逃れも続出した。決算公告を怠る法人も後を絶たなくなっているが、改善に向けた打ち手はないままだ。

 

 外部監視が可能な情報公開のルールを整備する必要があるが、監督省庁がないことが足かせになって野放しになっている。

 

■委託業務の始まり

 

 私は、ある取材先からの紹介で、官公庁の委託業務に携わってきた電通関係者から一般社団法人を介する理由などの証言や資料を得ることができた。関係者(性別、年齢などは特定につながりかねないので差し控える)は20年以上にもわたって委託業務に携わってきたキーパーソンだった。

 

「(官公庁関連部署の)売上は1000億円単位でしょうか。自民党に対する食い込み方はすごいし、経産省農水省総務省は特に強いんじゃないですか。

 

 入札の仕様書自体を作ってくれとお願いされたこともありました。中央官庁の役人って忙しくて、いちいち作っていられないんです。『ちょっといい?』と言われて、『これよろしく』って。

 

 仕様書の文言をできるだけお役所言葉を使った『霞が関文学』にするとか、そうした依頼も楽々引き受けられるので、一番使い勝手が良かったんだと思います。マンパワーがあるので」

 

 では、一般社団法人を介する理由はなにか。

 

「例えば、事業元の経産省がいるとした場合。その下にまずは一般社団法人を置くんです。確定検査ってあるよね。その確定検査って会計検査院も含めて、ピラミッドの頂点にある一般社団法人にしか基本的に行わないんですよね」

 

 確定検査とは補助金額を確定させるため、補助事業終了後に官公庁から受ける検査のことで、事務局が申請内容通りに補助事業を実施し、経費が適正に支出されたかをチェックする。官公庁は委託先から提出された実績報告書の内容を確認して、必要に応じて現地調査やヒアリングを行うこともある。

 

「第1次支払い先と請求の関係は、経産省と一般社団法人なんです。ということは、一般社団法人とか公的なイメージがあるところを介した請求と支払いで済んでしまうんですよ。そこから他の会社に再委託や外注をするんですけど、広告会社の内部規約では、第2次支払い先の原価は開示しないということになっていまして。

 

 だから、会計検査院の確定検査が第1次支払い先で止まってしまうんです。仮に経産省からサ推協に800億円払いました。そこからさらに広告代理店に700億円で流した場合、800億円の明細さえクリアになっていればいいんですよ。広告代理店に700億円だけ払いましたって証明だけすればいいんです」

 

 まさか……。私は背筋が寒くなった。血税の使途のチェックがこんなにもアバウトで杜撰なものとは思っていなかったからだ。

 

「一般社団法人が経産省に見せなければいけないのは、広告代理店からきた700億円の請求書だけなんですよ。実は、広告代理店がいくらでこの仕事をやっているかなんて追及されることはケースとして少ないんです。利益も乗っかっているので原価いくらなのって話になるんですけど、そこはぼかします」

 

 官僚サイドを取材していても、誰もが委託業務の原価がいくらなのか、利益は一体どれくらいなのか、分からないと首をかしげていた。知らないフリをしているのではないか。そう思ったこともあったが、どうやら本当に知らないようだ。もしくは知ろうとすることで関係性が崩れる懸念があったのだろうか。

 

「仮に800億円のうち、原価いくらなのっていうのを隠すためには、経産省から直(じか)で検査を受けるのはまずいんです。なので、広告代理店の上に一般社団法人を置く仕組みを考えたんです。そのやり方は合法かつ都合が良いので。

 

 もちろん、全部が全部、一般社団法人を介していると怪しまれるので補助金事業の規模や構造とかを見ながら判断しますが。いくつ一般社団法人を作ったか分かりません」

 

 ほとんど言葉を発していないのに私の喉はカラカラに渇き切っていた――。

 

 

 以上、高橋祐貴氏の新刊『追跡 税金のゆくえ~ブラックボックスを暴く』(光文社新書)をもとに再構成しました。集められた税金は無駄なく活用されているのか。毎日新聞記者が、税金の無駄遣いの実態を克明に明かします。

 

( SmartFLASH )

 

岸田首相 旧統一教会との関係「説明してきたとおり」  2024年9月17日

岸田首相 旧統一教会との関係「説明してきたとおり」

2024年9月17日 NHK

 

安倍元総理大臣らが2013年の参議院選挙直前に自民党本部で旧統一教会の幹部らと面談していたとみられるなどと報じられたことについて、岸田総理大臣は、教団との関係は国会などで説明してきたとおりで、現段階で付け加えることはないと述べました。

統一教会との関係をめぐり、安倍元総理大臣が2013年の参議院選挙直前の6月下旬に自民党本部の総裁応接室で、萩生田・前政務調査会長や岸・元防衛大臣とともに当時の教団の会長や関連団体の幹部らと面談していたとみられるなどと朝日新聞が報じました。

これについて、岸田総理大臣は、総理大臣官邸で記者団から「党と教団の組織的関係性は、なかったと考えるか」と問われ「旧統一教会と党の関係については、これまでも国会答弁などで再三説明させてもらったとおりだ」と述べました。

また、事実関係を改めて調査するかどうかに関しては「調査についても国会でたびたび説明させてもらった。ぜひそれを確認してもらいたいと思っており、今の段階でそれに付け加えることはない」と述べました。

 

無自覚の「特権」直視を 関東大震災から101年

無自覚の「特権」直視を 関東大震災から101年[安田菜津紀エッセイ]
2024年9月16日

 

www.okinawatimes.co.jp

 

 2021年10月31日、前回衆院選の投開票日、私はTBSラジオの選挙特番に出演していた。スタジオから日本維新の会馬場伸幸幹事長(当時)に電話をつないだ際、ヘイトスピーチ対策の公約について尋ねた。その中に、「日本・日本人が対象のものを含む」という文言があったからだ。

 どんな立場の人間であれ、言葉の暴力の的にしてはならないが、16年に施行されたヘイトスピーチ解消法の立法事実には、マジョリティーとしての日本人に対する「罵詈(ばり)雑言」などは含まれていない。ヘイトスピーチは差別を扇動し、マイノリティーをより脆弱(ぜいじゃく)な立場に追いやることにその深刻さがある。けれども馬場幹事長の返答は、「(ヘイトスピーチを)幅広くとらえる」と要領を得ないものだった。

 維新や馬場氏だけの問題ではない。「在日だって日本人の悪口を言う」「そういう逆差別だって深刻」と、ヘイトスピーチとそうではないものを並列し、差別の本来の深刻さを無効化するような言説は流布され続けている。力の不均衡や権力勾配、それが綿々と続いてきた歴史的背景を「無視」できることも、マジョリティーの「特権」ではないだろうか。

 その文脈で「属性でものを語るな」という言葉も耳にするが、属性でマイノリティーを排除するヘイトスピーチと、差別を受けてきたがゆえにマジョリティー側から身を守ろうとしてしまう反応を、同列に並べることはできないだろう。

 巨大なヘイトクライムは、ある日突然、空から降ってくるのではない。関東大震災朝鮮人虐殺も、「朝鮮人は何かしでかすはずだ」という、マジョリティーからすれば「小さく」見えるかもしれない差別の積み重ねの上で起きたものではなかったか。

 あの震災から101年。無自覚な「特権意識」は、誰でも陥る恐れがある。けれどもそれに気づいたとき、向き合おうとするのか、開き直って終わるのかは雲泥の差だ。

 人権の問題を「仲良くしよう」「思いやりを」と単に均(なら)すのではなく、背後にある不平等の構造そのものを認識し、覆す取り組みこそ求められているのではないだろうか。(認定NPO法人Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)=第3月曜掲載

 

『飢餓海峡』(1965)

京都文化博物館フィルムシアター、【没後20年】水上勉の世界を描く。13日は『飢餓海峡』(1965)。戦後すぐの飢餓状況の中、追いつめられ殺人・放火を犯した男。それを元手に実業家として成功しながらも再び殺人を犯してしまう。そして不幸な生の狭間に一見の客と心かよわせ、一度はその男に助けられながらも最後には彼に殺される娼婦。これらの事件の偶然で結び合わされた糸をたぐり、犯人を追いつめてゆく老刑事。内田監督は不幸な背景を持つ男と女の中に、物心双方の飢えを対位させて描く。

https://www.bunpaku.or.jp/exhi_film/schedule/

 


飢餓海峡
1965(昭和40)年東映東京作品/183分・モノクロ
製作:大川博 企画:辻野公晴、吉野誠一、矢部亘 原作:水上勉 監督:内田吐夢 脚本:鈴木尚之 撮影:仲沢半次郎 録音:内田陽造 照明:川崎保之亟 美術:森幹男 音楽:富田勲 助監督:山内柏、太田浩児、福湯通夫、高桑信 進行主任:内田有作 W106方式指導:碧川映画科学研究室、碧川道夫、宮島義勇、小西昌三、山本豊孝
出演:三國連太郎(犬飼多吉、樽見京一郎)、左幸子(杉戸八重)、三井弘次(本島進市)、加藤嘉(八重の父・長左衛門)、沢村貞子(本島の妻・妙子)、藤田進(荻村利吉/東宝)、風見章子(樽見の妻・敏子)、亀石征一郎(小川)、曽根秀介(朝日館主人)、安藤三男(強盗犯・木島)、山本麟一(和尚)、沢彰謙(来間末吉)、菅沼正(佐藤刑事)、進藤幸(弓坂の妻・織江)、安城百合子(葛城時子)、関山耕司(堀口刑事)、最上逸馬(強盗犯・沼田)、北山達也(札幌の警部補)、岡野耕作(戸波刑事)、八名信夫(町田)、久保一(池袋の警官)、須賀良(鉄)、山之内修(記者)、志摩栄(岩内署長)、室田日出男(記者)、北峰有二(警視庁の係官)、松平峯夫(弓坂の長男・一郎)、松川清(弓坂の次男・次郎)、遠藤慎子(巫女)、田村綿人(大湊の巡査)、高倉健(味村時雄)、伴淳三郎(弓坂吉太郎)
戦後間もない昭和22年、台風10号津軽海峡を襲い、青函連絡船が沈没した。事故後収容された遺体は、乗客名簿より2名多かった。ベテラン老刑事・弓坂は、転覆事故にまぎれた殺人事件を知り犯人を追う。そして犬飼という大男に疑惑を持ったが、決定的証拠がつかめないまま、10年の歳月が流れた・・・。
昭和29年に実際にあった青函連絡船・洞爺丸の転覆事故をもとに、「週刊朝日」誌上に昭和37年から約1年間連載された水上勉の同名小説を映画化。『黒田騒動』(1956)以降、内田作品の企画・脚本を担当している鈴木尚之はこの原作の映画化を持ちかけられた時、「自分の足の裏でその土地を愛しているような、そんな男を捜してくれ」というかねてからの内田監督の想いを刑事・弓坂にぶつけて脚本化。戦後すぐの飢餓状況の中、追いつめられ殺人・放火を犯し、仲間を殺してまで金を独り占めする。それを元手に実業家として成功しながらも再び殺人を犯してしまう男、不幸な生の狭間に一見の客と心かよわせ、一度はその男に助けられながらも最後には彼に殺される娼婦、そして一人の老刑事がこれらの事件の偶然で結び合わされた糸をたぐり、犯人を追いつめてゆく。本作で内田監督は不幸な背景を持つ男と女の中に、物心双方の飢えを対位させて描き、物と心それぞれの飢えと充足という微妙で悲劇的な関係を際立たせた。(キネマ旬報賞5位作品)

 

「第四の被ばく」米軍医報告書 “重度の白血球減少” 指摘  2024年9月14日

「第四の被ばく」米軍医報告書 “重度の白血球減少” 指摘

2024年9月14日 NHK

 

 

広島と長崎への原爆の投下、第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件に続く「第四の被ばく」とも言える事件の詳しい実態が初めて明らかになりました。

66年前の1958年、海上保安庁の船が太平洋上でアメリカの水爆実験に遭遇して被ばくした事件では、翌年、乗組員の1人が急性骨髄性白血病で死亡しましたが、国は、被ばくの線量は微量で直接関連づけることは困難だとしました。

今回、NHKが、被ばく直後に派遣されたアメリカの軍医の報告書を入手して分析したところ、乗組員の一部に重度の白血球の減少が起きるなど体に深刻な異常が起きていると指摘していたことがわかりました。

航海中に水爆実験に遭遇

 
測量船「拓洋」

1958年7月、海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の2隻は、太平洋を航海中、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇して乗組員が被ばくし、その1か月後、当時の厚生省の協議会は「現在、放射線障害があるという所見は得られない」などとする見解を発表しました。

翌年の1959年8月、「拓洋」の首席機関士だった永野博吉さん(当時34歳)が急性骨髄性白血病で死亡しましたが、厚生省の協議会は被ばくの線量は「微量」で白血病と直接関連づけて考えることは「現在の医学の立場からは困難」だと結論づけました。

米軍医の報告書を入手 分析すると…

 

今回、NHKは、ラバウルに派遣されたアメリカの軍医が、乗組員の体に現れた異常や被ばく線量の推定値などを詳細にまとめた報告書をアメリカの公文書館などで入手し、広島で長年、被爆者医療に取り組み、現在は福島市の病院に勤務する齋藤紀医師とともに分析しました。

それによりますと、被ばくから12日後に乗組員113人から24人を抽出して行った血液検査で、全体の3分の2にあたる16人の白血球数が減少していると評価されていたことがわかりました。なかには、重度の減少だと評価された乗組員もいました。

さらに、全体の半数にあたる12人に、白血球を構成する成分の割合にも深刻な異常が生じていたこともわかりました。

こうした症状について軍医の報告書では「500ミリシーベルト以上被ばくした場合の急性被ばくや放射線障害と関連づけられることに疑問の余地はない」などと記載されていました。

しかし、船の上での測定値から算出した被ばく線量が微量だなどとして最終的に「健康への影響はない」と結論づけられていました。

齋藤紀医師

報告書の分析を行った齋藤医師は「体の異常の解釈が出来ないと軍医は苦しんでいるが、結論では微量な線量だということで体の異常を打ち捨てている。問題は、矛盾するからといって放射線の影響そのものをないことにしようという姿勢をとってしまったことだ」と指摘しました。

被ばく当時の状況

今回の被ばく事件は、1958年7月、海上保安庁の測量船「拓洋」など2隻が、60か国余りが参加した国際地球観測プロジェクトに参加し、太平洋を航海中に起きました。2隻の乗組員は、放射線量を計測する観測員や医師、同行した新聞記者も含め、あわせて113人でした。

2隻が航海に出た時期、アメリカは、太平洋で3日に1回のハイペースで核実験を行っていて、プロジェクトの調査はアメリカが設定した危険区域を避けて実施することになっていました。

この航海について、「拓洋」の航海長だった大山雅清さんが手記に詳しく書き残していました。

出港した7月3日、「平均年齢29歳。若い乗員構成だ。私は航海長36歳、拓洋も若い。観測点へ向け一路南下」と記されています。

7月13日、「核実験情報入手。本庁79番電『7月12日1230ごろ微気圧振動を感じた。発生地は日本南東方約1500海里』」などと海上保安庁から「拓洋」に核実験の情報が寄せられたと記載されています。

今回、NHKが取材した複数の元乗組員は、航行するエリアが核実験が行われている場所の近くだということを事前に知らされていなかったと証言しました。

仲田次男さん

「拓洋」の甲板員だった仲田次男さん(90)は「幹部の人たちは聞いていたかもしれないが、われわれは一切知らなかった」と話しました。海上保安庁の資料によりますと、核実験の情報が寄せられた翌日、14日の正午ごろ、「拓洋」が危険区域から西におよそ300キロの海域を航行中、「かなり強い放射能気団」に遭遇し、「急激な放射能汚染」を検出したということです。

「拓洋」の甲板で計測された放射線量は、14日の午後0時10分から急激に増え始め、その後も長時間、増加が続きました。

このころ、「拓洋」の周辺ではスコールが降ったということです。

同じ14日、大山さんの手記には「距離と経過時間から拓洋は正に放射能塵拡散帯の中心軸付近にいることになる」、「この汚染気団からすみやかに離脱するには南方へ避退するのが賢明であろう。そこで観測を一時中止し南下」などと記されています。

2隻は観測を中止し、避難のため急きょ、南太平洋のラバウルに向かいました。

7月18日の手記には、「乗員の大多数に白血球数異常低下が認められるので、なお警戒を怠らぬこととした」と緊迫した状況が記されています。

巡視船「さつま」

また、取材のため「さつま」に同乗していた新聞記者が撮影した写真や映像には、乗組員が除染のため、ホースで船体に水をかけている様子がおさめられていました。

海水からは通常より高い放射線量が計測されていましたが、乗組員によりますと、除染に海水を使うよう指示されたということで「さつま」の砲員だった巻木慶三さん(94)は「真水はよけいに積んでませんでしたから海水をくみ上げて3日間続けて除染しました」と証言しました。

ラバウルに到着したあと、乗組員にはアメリカの軍医による身体検査などが行われ、被ばくから24日後の8月7日、2隻は東京に戻りました。

当時のニュース映像には、乗組員を出迎える家族たちの姿が残されています。

アメリカの核実験と日米関係

測量船「拓洋」が被ばくしたこの時期、アメリカの核戦略が日米の関係に大きな影響を与えていました。

1950年代、米ソの核軍拡競争が加速し、東西の対立が先鋭化しました。

アイゼンハワー大統領(当時)

アメリカでは1953年に発足したアイゼンハワー政権が、通常兵器に代えて核兵器に依存する防衛戦略、いわゆる「大量報復戦略」を打ち出しました。

原爆よりさらに威力がある水爆で、ソ連に対する抑止力を高めようとしました。

しかし、1954年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員が被ばくするビキニ事件が起きました。

乗組員は「死の灰」を浴び、被ばくから半年後には、無線長だった久保山愛吉さんが亡くなりました。

ビキニ事件をきっかけに核実験禁止を求める運動が日本全国で展開され、世界的にも核兵器廃絶への潮流が生まれ、アメリカの核戦略は国際的な非難にさらされました。

そして、4年後の1958年7月に行われた水爆実験「ポプラ」で、海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の乗組員が被ばくしました。

日米の間では、ちょうどこの時期、日米安全保障条約の改定交渉が始められようとしていて、外務省の内部文書には、反核世論がアメリカへの反発につながり、交渉が難航することを懸念する内容が記されていました。

事件には不明点も

この事件では、被ばくによる乗組員の体への影響について、明らかになっていないこともあります。

2隻の乗組員は、帰国したあとも複数回、検査を受けていて、当時の厚生省の協議会は、「異常は認められなかった」などと一貫して影響を否定しました。

また、被ばくから1年後の1959年8月に急性骨髄性白血病で亡くなった永野博吉さんについて東京大学理学部と当時の放射線医学総合研究所が遺体の検査を行いました。

このうち、放医研は「十分論じることができない」としましたが、東京大学の検査では永野さんの内部被ばく線量が2レム、およそ20ミリシーベルトと推定されました。

この検査結果を踏まえ、厚生省の協議会は永野さんの被ばくの線量は「微量」で、白血病と直接関連づけて考えることは「現在の医学の立場からは困難」だと結論づけました。

いずれの場合もどのような議論を経て結論に至ったのかなど、被ばくの影響を否定する判断をした理由は明らかになっていません。

このためNHKは協議会の議事録など一連の文書について情報開示請求を行いましたが、厚生労働省は「作成または取得した事実はなく、実際に保有していないため、不開示とした」としています。

永野さんの妻 澄子さん「『秘密、秘密、秘密』と口止め」

被ばく事件の翌年、急性骨髄性白血病で死亡した「拓洋」の首席機関士、永野博吉さん(当時34歳)の妻・永野澄子さん(当時93歳)が、ことし5月に亡くなる前、取材に応じました。

博吉さんが太平洋上で被ばくしたのは澄子さんと結婚してまもない1958年7月で、2人の結婚生活はわずか3年だったということです。

被ばく直後の博吉さんの体調について澄子さんは「体がだるく、毛が抜けたと本人から聞いた」と話しました。

そのうえで、「船で帰ってくる途中から毛が抜け始めたらしいです。帰国したあとはももから下の足の毛がすっかりきれいに抜けてしまっていました。『また毛が抜けた』と言っていたことは覚えています。本人は気にしていました」と話しました。

その後、博吉さんは船での勤務を再開しましたが、事件からおよそ1年後、歯ぐきからの出血が止まらなくなり、入院しました。

病室には大量の血がついたシャツが置かれていたこともあったということです。被ばくから1年後の1959年8月3日、博吉さんは亡くなりました。

博吉さんが亡くなった日、国の役人から口止めされたということです。

永野澄子さん

澄子さんは「口止めされたことは覚えています。とにかく『秘密、秘密、秘密』でした。それから『日本の国だけの問題じゃなくて、アメリカも絡んでいるから』っていうことを言われました。それだけは悔しいです」と話しました。

さらに「『博吉さんのこの放射能の量ではお子さんに対して、そのまたお子さんに対して将来の遺伝っていうことを考えなくて結構です』と即座に言われました」とも話しました。

そして、澄子さんは「人の命に代わるものはないです。陰に泣く人が何人もいるんだということを忘れないでほしいです。だから、もうこういう思いをする人はなくしてほしいです」と訴えました。

 

1945年8月11日 満州 甘粕

 甘粕が「全員集合」の指令を出した十一日は、二十四時間後にはソ連軍が新京になだれこんでくると予測され、通化に退去を決めた関東軍総司令部もまだ新京死守の姿勢をとっていた時期である。この時に千人を越す集団を避難させる汽車の手配は、さすがの甘粕にもできなかったのであろう。関東軍は軍の家族だけをいち早く逃がすため、限られた列車の一部をそれに割り当てて、今日まで悪名を残した。その中で、甘粕は軍とどのような交渉をしたものか、満映の応召者の家族だけは十一日の夜に汽車で出発させている。
 この夜の甘粕の行動を、新京憲兵隊長であった同期生・飯島満治が「追悼余録」に書き残している。「甘粕は関東軍と交渉し、満映の応召家族を南方に疎開させることとし、八月十一日午後十時新京発の列車で出発させ、自ら満映の提灯を振って送った。その帰り十時半頃、僕は甘粕の訪問を受けた」
 大杉事件直後も文通を絶やさなかったほどに親しい二人である。この夜、甘粕は「早く病気を直せよ」といっただけだが、飯島は、甘粕は死を覚悟したな——と直感した。

                                                            (『甘粕大尉』 角田房子)

 

関東大震災の二日後 『甘粕大尉』

   遠藤がようやく鴻ノ台に辿り着いてみると、隊は朝鮮人討伐に出ているという。とんでもない——遠藤はうなった。ここまでの長い道中で、避難民の間に流れる朝鮮人暴動説は遠藤の耳にもたびたび聞こえていた。だが彼自身が朝鮮人の不穏な行動を見たことはなく、人々の言葉にも体験談、目撃談は一つもなかった。単なる流言ではないか——と遠藤は強い疑問を抱いていたが、やがて帰隊した兵たちは「朝鮮人を何人殺した」「いや、おれはもっと……」などと自慢し合っている。
 真相をつきとめねば、と思っている矢先、遠藤にも出動命令が下った。 (中略)
 江東地区の警備に出てからも、遠藤は避難民への食糧確保に当るかたわら、朝鮮人についての情報を集めて歩いた。誰もが暴動説を信じておびえているが、直接被害を受けたと語る者は一人もない。
 この噂は初めからおかしい――と遠藤は改めて考えた。大地震は誰にとっても寝耳に水の出来事であった。何の備えもなかった東京市民の多くが死傷し、すべての通信網が破壊されたため、焼け出された人々の中には今も家族との連絡がつかず、安否を気づかって焼け跡をさまよう者もいる状態ではないか。
 同じ条件の下で、朝鮮人だけが緊密に連絡をとり、二百人とも三百人ともいわれる隊を組み、武器弾薬を持って襲撃して来るなどということが可能だというのか。彼らだけが九月一日の地震を予知し、その時を期して暴動を起こそうと秘かに武器弾薬を貯蔵していたとでもいうのか。朝鮮人が井戸に毒物を投入したという噂に、人々の恐怖と憎悪はいっそうかきたてられているが、いったい誰が、いつから、どこに多量の毒物を隠匿していたというのか――。
                    (『甘粕大尉』 角田房子)