父は不幸な軍人じゃなかった
レイテ戦記には勝田参謀についてこう記述されています。
「レイテ戦記」より
『残留組に繰り込まれた不幸な軍人であった』 松本さんはレイテ島を脱出する前夜、勝田参謀と同じ小屋に泊まっていました。
松岡さんは耳の遠くなった松本さんにきちんと質問の意図が伝わるようにと、事前に用意した質問用紙を見せながら尋ねました。 松岡さん
「最後の晩に一緒になったというその時の話を聞きたいんです」
松本さん
「いろいろ戦場で話はうかがったんですが、その時に必ず私に言ったことは『俺はレイテで死ぬよ』ということでした。最初から覚悟をされていたようです。最後に勝田参謀と一緒に泊まった時も『もう俺はここで死ぬつもりで来たんだ』とはっきりおっしゃっていました。第一線の戦闘からずっといらしている勝田参謀は、戦闘状況が分かっていたんだと思います」 松岡さんはさらに尋ねました。 松岡さん
「母が言っていたのは『戦争に負けるっていうんじゃないけれども、諦めていたという気持ちを父は持っていたのかな』ということでした」
松本さん
「勝田参謀は決して戦争を諦めていたのではないと思います。勝田参謀は『作戦参謀と情報参謀は行け。俺は後方参謀だからここに残るぞ』ということをおっしゃられていました」 松岡節さん
「もう奇跡です、奇跡。今まで幻であった父の最期がこれではっきりしました。父の覚悟といいますか。それはやっぱり責任感のある人でした。これでもう満足しました」父の生涯を書き残す
児童文学作家として長年活動してきた松岡さん。
面会をきっかけに松岡さんは、自分の手で父親の生涯を残しておきたいと考えるようになりました。
読み返したのは押し入れに保管していた父親の日記です。 ビルマに出発した1943年2月から始まり、日本に一時帰国した翌年3月までのことが書かれています。 頻繁に頭上をイギリス軍機が飛び交って近くに砲弾が落ちてくる様子や、激しい戦場の第一線に食糧を送ることができない苦悩などがつづられています。
師団長から注意を受けるたびに自分の能力が足りないためだとし「申し訳ない」との記述もあります。
勝田参謀が詠んだ短歌の中には悲痛な歌もありました。 皮肉なる 言の葉聞きて 黙しける 生き甲斐なき世に 生れたるなり 松岡節さん
「読み始めたらつらくて。短歌からは父の悲愴な思いが伝わってきたように思います。父の苦悩というのは大きく、痛く強く胸に突き刺さってくるんです。戦争になると人間は凶器になり、人間が本来持っている優しさは通じなくなるのかもしれません」 父親の苦悩を知り、松岡さんは3か月ほど書けなくなったと言います。
そんな中、戦場でも豊かな人間性を失わなかったことが感じられる父親の文章や短歌を目にします。 文讀みて 浜辺をそぞろ 散歩せば 内地に續く 水をみるなり
節さんたち3人の子どもからの手紙が日本から届いた日に詠まれたものです。
10歳だった節さんは「みんな元気である」、次女の礼子さんは風邪気味、4歳になったばかりの武さんは戦車や自動車の絵を描いてきてくれたと日記にはあります。
また、仲間を思う歌もありました。
惜しみても 尚あまりある 人々を 失ふことの 如何に苦しき
松岡さんは、家族や仲間を思う父親の優しさに触れ、再び筆をとりました。
そして、父親の人生を書き残す意味を次のように語ります。 松岡節さん
「戦争に参加した心優しい人間の一生を書き残しておいたほうがいいんじゃないかなと。人間としての勝田太郎はどういう人物だったのか、私の父はどんな人だったかなということを生い立ちも含めて、いろいろなことを書いていくだけの話です。父の供養のためにと思って書いているだけです。私たち戦争体験者は戦争の大変さ、あの怖さを知っているから、あの時代が来たら困るということをものすごく感じます。もしこれを読んでくれる人がいれば、戦争はむだなものだなということを分かってほしいと強く思います」