ippo2011

心のたねを言の葉として

党中央は過ちを犯すかもしれないが、東大細胞の重要な任務は常に党中央に対して堂々と意見をのべ、必要であれば異議申し立てをすること

左翼衰退の50年と再生の模索を語る 第1回
――伊藤谷生さんに聴く
大窪一志(interviwer)
 
 
――僕がその後1974年に共産党から離党したときに、あなたを含め学生時代の友人同志から「党はかならず復元するから」「党は有機的な存在だからいつか正される」といって説得されましたが、党中央の路線は僕が入党のとき承認した綱領からは明らかに逸脱しているし、それを討論に付したり僕ら党員にもわかるようなかたたちで説得するのではなく、これに疑念を示すのは反党行為だとして査問に付すという対応を取ってきて、それがずっと受け容れられてしまってきている状態を見ると、 僕には日本共産党組織にはもはや復元力も有機性も失われているとしか思えませんでした。あなたがまだ復元力がある、誤りはいつか正されると考えたのはどうしてですか。
 
入党のときに聞いた戒め
 
 それには、私が入党したときの決意が関係していました。
 
――そのときのことを話していただけますか。
 
 私が入党届を提出したのは1965年12月25日、南ベトナム解放民族戦線の結成5周年の記念日でした。大学1年の時です。最初の任務は、その年の暮れに来日するアメリカ副大統領ハンフリー来日阻止闘争でした。私たちはロビーでハンフリーに直接抗議する任務をあたえられて、スーツを着て羽田空港ロビーに三々五々集まり、ハンフリーの搭乗機が到着したら、指揮者である都学連の沢井さんの動向を注視して送迎デッキに集結、4月のロストウ来日阻止闘争の再現を試みるという方針でした。
 
――この年4月22日の米国務省政策企画委員長ロストウ来日には羽田ロビーに全学連の学生二千人が集結して来日阻止集会をおこない、機動隊に排除されたものの、東大で予定されていたロストウの講演は中止されました。その再現を図ったわけですね。
 
 党からの指示では「逮捕を覚悟し、名前のわかるものは持つな。逮捕されたら完全黙秘せよ。必ず救援態勢をとる。命を懸けて闘っているヴェトナムの同志たちのことを決して忘れるな」と口頭で伝えられました。ぞくぞくする緊張感とともに自分も革命運動に参加するメンバーになったのだという誇りで高揚しながら、成人式用に母がつくってくれたスーツを初めて着て羽田に向かったんです。しかし集結した学生数も多くなかったうえ機動隊もこちらの動向を察知して厳しい規制をおこなって、デッキ上でのデモで気勢を上げるのがやっとでした。年が明けて、目黒区委員会(当時は「地区委員会」とはいわず、「区委員会」と呼ばれていました)の北野さんから党員候補となることを承認したので区委員会まで来るようにと連絡があり、出向いたところ、承認までの経過を話してくれたうえで、心構えとして次の二つの点を静かに強調されました。
 第一点は、弾圧によって党組織が打撃を受け、中央や上級機関と連絡が取れなくなっても、自分の頭で考えて一人でも闘いを継続すること。第二点は、これまでもそうであったようにこれからも党中央は過ちを犯すかもしれないが、東大細胞の重要な任務は常に党中央に対して堂々と意見をのべ、必要であれば異議申し立てをすること。
 思いもよらぬ言葉だったので驚きました。柔和な顔の奥に革命運動の教訓が深く潜んでいるに違いないと感じたんです。そしてさらに、60年安保闘争のとき殺された樺美智子さん(彼女は東大教養学部時代には日本共産党員でしたが共産主義者同盟に加盟して党から離れました)について驚くべき言葉を聞きました。
 「樺美智子さんは最期まで日本共産党員であった。樺さんが勤評闘争のときに目黒の共闘組織で誠実に活動していたことをわれわれは忘れない。本郷に転籍(党細胞組織の所属を変更すること)はしなかったけれど、目黒区委員会所属の立派な党員として闘ったのだ。殺された翌日、目黒区委員会は区委員会の旗を持って追悼デモに加わった」というのです。
 それは党中央の公式見解とは異なるものであって、驚いた私は改めて北野さんの顔を見つめましたが、そこにはやはり柔和な顔がありました。あれから55年以上、新日和見主義事件を経ても、またいろいろな軋轢を経験しても、なぜ党を辞めなかったのか、それは入党のときの北野さんの言葉に基づいてきたからだという思いが深いです。北野さんがいうように、「党が過ちをおかすことは避けられない。問題はそれをどうやって克服するかだ。これまでも、そうやって党は前進してきたんだ」ということですね。
 
――樺美智子さんの死に対しては、右翼大東塾の影山正治も彼女を追悼して、右翼からこういう人物が出なかったことは残念だとのべていますが、日本共産党中央は、官憲による虐殺ではあるが、彼女はトロツキストとして批判されなければならないし、全学連主流派の冒険主義にも責任があるという態度を取って、追悼集会などはボイコットしたわけです。しかし、彼女が教養学部時代に党員として所属した目黒区委員会は、党旗を掲げて追悼に参加したんですね。そのことを僕は知りませんでしたが、初めて知って、それが革命党というものだと思いました。北野さんが言った、党員は自分の頭で考え、必要なら党中央に異議を申し立てるべきだという態度を当時の目黒区委員会は貫いていたということですね。僕は父親が共産党員で、子供のとき共産党がまだ小さな政党だった頃から、官僚ではない現場の立派な党員を何人も見てきていますから、充分納得できる話です。でも、離党を決意したとき、そういうものは、もはやほとんど失われていると僕は思いました。