ippo2011

心のたねを言の葉として

10月2日 リットン報告書公表

10月2日 リットン報告書公表


1932年 、リットン報告書が公表される。


 リットン調査団は1932年10月2日に報告書を世界に公表した。報告書の骨子は、満州事変は日本の侵略行為であり、自衛のためとは認定できないというものであった。ただし、満州における日本の権益は認められるとして、そこに日本と協力する自治的な政権が成立することには容認できるとしていた。日本軍に対しては満州からの撤退すべきであるが、南満州鉄道沿線については除外された。
 
 このように、リットン報告書は必ずしも日本に全面的に不利なものではなかったが、軍部は侵略行為と断定されたことによって満州国も否認されたものとして強く反発し、国内にもそう宣伝した。リットン報告書が、満州事変は侵略であると認めながら、日本の満州での権益を認めるという妥協的な内容であったことは、その立場が欧米帝国主義にあり中国の独立や中国民衆の保護の立場にはなかったことを意味している。

にもかかわらず日本がそれを受諾しなかったのは満州支配という実利よりも、国家の威信(あるいは軍の威信)を大事にしたためなのだろうか。多くの国民は松岡代表が決然と連盟総会を退場するニュース映像を見て快哉を叫んだであろうが、このときが日本が世界とアジアの中で孤立し本格的侵略国家として抜き差しならぬ歩みに入ったときであった。(世界史の窓)