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心のたねを言の葉として

50年前のチリ軍事クーデタ、100年前の日本の震災と虐殺

50年前のチリ軍事クーデタ、100年前の日本の震災と虐殺

2013/9/9

 

太田昌国のコラム : 50年前のチリ軍事クーデタ、100年前の日本の震災と虐殺


 9月1日の新聞に載った、対照的なふたつの記事に注目した。
 ひとつめは、南米チリの首都、サンティアゴからAFPが伝えたニュースだ。1973年、チリで起こった軍事クーデタの際の出来事の、50年後の顛末についての記事である。クーデタで打倒されたアジェンデ社会主義政権を支持していた多くの人びとが、軍警によって首都の屋内競技場に収容された。そのなかに、有名なシンガーソング・ライターのビクトル・ハラもいた。「ヌエバ・カンシオーン」(新しい歌)運動の担い手のひとりだった。彼は人びとを鼓舞しようとして、ギターを爪弾きながら(諸説あって、ギターは持っておらず、手拍子で、という説もある)、アジェンデ政権を支えた人民連合の歌「ベンセレーモス」(われわれは勝利する)を歌うよう、収容されている仲間に呼びかけた。
Venceremos - Inti - Illimani (HD) - Bing video (写真)

 

 怒った軍人たちは、ギターで弾き語りするのはビクトル・ハラの不動のイメージとなっていたからか、爪弾くための両手の指を粉々に砕き、最後には銃弾44発を身体中に撃ち込んで惨殺した。
 ハラには、例えば、ベトナムの抗米闘争を歌った「平和に生きる権利」という曲がある。
『平和に生きる権利/El derecho de vivir en paz 』

 日本のさまざまな集会・運動の場でも彼の曲が歌われることが多いから、親しんでいる方もいれば、一度くらいは耳にされた方も多いだろう。

 さて、今回の記事が伝えたのは、50年前にハラを虐殺した元兵士ら7人に対しチリ最高裁がつい最近、禁錮8~25年の判決を確定させたというものだった。元兵士らの年齢は73~85歳という。翌日には、最高齢の85歳の元兵士が、収監される前にピストル自殺を遂げたというニュースも届いた。さらに、政府は、クーデタ後の軍政下で行方不明となった1162人の行方を追うプロジェクトを発表した。軍政は3200人を殺害したとされるが(行方不明者はこの中に入っている)、元兵士らの「沈黙の掟」の壁は高く、虐殺や行方不明者の調査は難航してきた。プロジェクトでは、専門の予算を組み、捜査員が割り当てられ、不明者が拘束された時点から「最後の瞬間」までを解明する任務を負うという。50年前の行為が問われるということは、当時40代以上であったろう幹部が今なお存命している確率は低いから、当時20代~30代の若さであったろう元兵士たちが追及の対象となるのだろう。

 これらの一連の動きは、2021年末の大統領選挙で当選し、22年3月に就任したガブリエル・ボリッチ現大統領の登場によって加速したところが大きいだろう。50年前の過去を振り返る方法はいくつもあり得ようが、50年前に重大な人権侵害行為をなした人物の責任を追及することが、その主要な軸の一つとなっているのである。

 9月1日に報道されたもう一つのニュースには、気が萎える。前日の記者会見で、官房長官松野博一が、100年前の関東大震災時の朝鮮人虐殺に関して、「政府として調査したかぎり、事実関係を把握することができる記録が見当たらない。災害発生時において、国籍を問わず、すべての被災者の安全、安心の確保に努めることは、政府として極めて重要だと認識している」と語ったという記事(9月1日付「朝日新聞」)である。記者が「虐殺はなかったという話なのか」と追及しても、自民党政権下の2008年、内閣府中央防災会議の専門調査会がまとめた報告書『一九二三関東大震災』における朝鮮人虐殺を事実とした「当該記述は有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」と開き直ったという(9月3日付「しんぶん赤旗」)。

 これは、安倍政権下で全面展開された、政府の歴史修正主義路線の延長上にあるのだと言える。2015年、野党議員が質問主意書で、朝鮮人虐殺に関して政府として調査する考えはないかを問われた時に、政府は「記録がない」から「お答えすることは困難だ」と答弁した。これは、安倍政権下で数多く行われた悪名高き「閣議決定」の一つだ。

 今までなら、9月1日は、自然災害に対する「防災」の観点からの報道一色で埋め尽くされてきた。だが、今年はあの悲劇から100年目を迎えたこともあって、「人災」としての朝鮮人・中国人虐殺が、新聞でもテレビでも比較的よく取り上げられたと言える。そのさなかに、松野官房長官は敢えてこの言葉を放ったのである。「確信犯」以外の何者でもない。政府要人がこの種の発言を繰り返すことで、「朝鮮人虐殺はなかった」とする捉え方にお墨付きが与えられたと思い込む人びとが必ず湧いて出てくるのだ。

 松野発言の直後、100年前の虐殺の事実が徹底して隠蔽されてきた、神奈川・横浜での関連資料が発見されたとのニュースが流れた。県内で虐殺された朝鮮人は、従来は2人とされてきたが、実際には145人で、そのほとんどが横浜市内で起きたことを当時の知事が政府に報告した史料だという(9月5日付「しんぶん赤旗」、9月6日付「毎日新聞」)。『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003年)の著者、姜徳相氏(2021年逝去)が集めていた史料の中にあった。それは、まもなく、姜徳相・山本すみ子=共編『神奈川県関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』(三一書房)として刊行されるそうだ。

 記憶とその継承をめぐるたたかいは、こうして、進行中だ。50年経とうと、100年経とうと、人権や生命が関わった問題の真実を明かさなければならない。