ippo2011

心のたねを言の葉として

「あの日 昭和20年の記憶」3月15日 (NHK出版) 藤本義一(作家)当時12歳・大阪府堺 国民学校6年

「あの日 昭和20年の記憶」3月15日 (NHK出版)
藤本義一(作家)当時12歳・大阪府堺 国民学校6年

 

 

 僕は3月13日の空襲も大変だったが、もっと大変だったのは、当時45歳だった親父は店が焼けて、財産全部失ってしまったことです。途端に神経衰弱になってしまった。それが僕自身としては戦争の一番大きな痛手だった。

 

 お袋は41歳でその後怪我をする。親父は何も言わなくなって、朝から晩までこよりばかり作る。親父の仕事は質屋で、こよりで預かったものを結んで蔵に入れておかなければならなかった。もう店もないのに、何千本も作った。

 

 本人は当然苦しいんだろうけども、見ているこちらの方はさらに、どうしたら元気を与えられるかと考えたいが、親父の姿は拒絶しているという感じがした。今の世の中でそういう徐々にその病気になる方もいらっしゃるけども、親父は突如なった。その状態は人間が生きながら死んでいるという感じ。これはたまらなかった。

 

 その後回復した親父と外出した時に、小さな小川で息を呑むような光景を見た。12、3人くらいの遊郭から逃げてきた遊女がうつ伏せ、あるいは仰向けになって死んでいる。死体を見ると、手と足が一本の紐でずーっと繋がっている。その遊郭の大将が逃げないように女たちを一列に縛っていたんです。

 

 それを見たとき、人間ができることの限界を超えてしまったような、何か悲しさよりも恐怖を覚えた。それまでも空襲の遺体は随分と見ているが、あれほど強烈で、しかも着ているものが華やかなので、かえってその無残さが迫ってきました。(抜粋)