ippo2011

心のたねを言の葉として

夏みかん酸っぱしいまさら純潔など

娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
夏みかん酸っぱしいまさら純潔など

鈴木しづ子は敗戦直後の十年間に、句集二冊を出して消えた。注目を集めたのは第二句集『指環』(昭和27年1月刊)だったが、その注目の渦のなかで、行方不明が囁かれるようになり、やがてその作品も見られなくなる。鈴木は私と同年で大正8年(1919年)の生れ。(金子兜太「鈴木しづ子の俳句」)

 

それは、俳人・鈴木しづ子への違和感ではない。彼女を語る「言葉」への違和感だ。何か、一言で言うとキモいのだ。鈴木しづ子を語る男たちの口ぶりが。そこには「美貌の才女」で「娼婦」で「行方不明」になった鈴木しづ子をことさらに「伝説」に仕立て上げようとする 欲望が匂い立っていた。何か、俳句がどうこう以前に、彼女を語る多くの男性が、彼女の存在自身に欲情しているかのようなのだ。で、「欲情しているオッサン」というのは、申し訳ないがこの世でもっとも私が目にしたくないもので、しかし、彼女の資料に目を通せば、それらのオンパレードなのだからうんざりしてしまった。(雨宮処凛「もっとも大きな不幸」)