ippo2011

心のたねを言の葉として

「黴」        崔 南龍

「黴」

       崔 南龍


「この糞たれ奴、お前さえいなければ、おれは何時でも死んでやるんだが・・・」
父がこんな事を口にするようになったのは、私が十二になった春、ある病院でよくない病気だと診断されてからである。


母を知らず大きくなった私は、父が暗い顔で、この糞たれ奴と言われる度に淋しい思いでたまらなかった。

そして、よくない病気とは何んだろう? どうして人がそんなに嫌い、父が死んでやると口にするほど悩むのだろうか、私は子供の頭で考えてみたが、どうしても解らなかった。


ある日、奈良に住んでいる叔母がやって来て、気晴らしに奈良見物でもしたらどうだろうと、父だけを誘って出掛けて行った。勿論私は行けず、父が頼んで行った隣りのおばさんに身のまわりの世話をしてもらう事になり十畳と六畳の家に、しばらく一人で住まなくてはならなかった。


父が奈良へ行って、二、三日経ったある日、私が何時ものように学校から帰って来ると、家に見なれぬ女の人が来ていて私を待っていた。そして、その女の人は、意外にも叔母からの使いで、私の父の死を口早に告げ、早速奈良へ一緒に行かなくてはと、私の手を引いた。

(うそだ、うそだ、お父さんが死んだりするものか!)
 
その時、私は足が地からはなれるような驚きを感じた。


私は使いの人に連れられて神戸から奈良へと電車で走った。ところが、どうした事か叔母の家に着いた時には、死んだという父の姿も見えず、放心したような叔母と、その叔母を慰めている幾人かの隣人らしい人達がいただけだった。私はただ事でない空気を感じ、自分の小さな身の置き所に迷った。


叔母はそんな私を見つけると、

「南龍や、しっかりしておくれよ。一体、うちとお前はどうしたらいいんだと言うのよ。南龍の親たちはお前一人に全部の苦労を残して行きたい所へ行ってしまいはった。本当にしっかりしておくれなはれや南龍や!」

父の死の罪が私にでもあるかのように、深い息をしながら言った。

(この糞たれ奴、お前さえいなければ、おれは何時でも死んでやるんだが・・・)
 
どうして、その父が死んだというのだろう? そして、私と父の死とにどんな関係があると言うのだろう? 私の頭は不可解の上にさらに不可解が重なり真っ暗になった。それでも子供心に取り残された淋しさを憶え、所はばからず泣き出してしまった。


それから二日経って、棺のない父の葬儀があった。私は変な気持ちで、白いかたびらを着せられ、藁草履をはかされ、手に持った線香の煙にむせびながら、葬列について町外れの火葬場まで行った。そして、そこで私は荒なわでしばられた、まだたがの青い真新しい樽棺を見た。叔母はこの中にお前の父がいると言ってなわ目をといてくれたが、私は覗きもしなかった。私には父が死んだとはどうしても信じられなかったからである。
 

不可解の内に父の葬儀がすみ、不可解の内に日が経って秋になった。私はたった一人の親族であるこの叔母の家に置いてもらう事になり、学校へも行かず、近所の子供とも遊ばず、ただ家の中にじっとしていやな日を送っていた。その間にも、どうした事か警察の者、役所の衛生課の者だと言う人たちがやってきて、

「この子供かね、崔の子供で病気だと言うのは」

と誰も皆同じような事を言いながら帰って行くのであった。


ある日の夕方、一人者の叔母は、工場からの帰りに珍しく柿をたくさん買って来てくれた。そして、柿の皮をむきながら力のない声で私に言った。

「南龍や、病院へ行く気はないかいな、叔母さんがこんな事を言うと薄情に聞こえるかも知れんが、そうした方が互いにええと思うけんど・・・。南龍も知っているやろ、毎日のように見える役所の人たち、あの人たちは、お前の事や死んだお父さんの事で来てはるんや。そらお前、大人でも行きたくない病院だもの、南龍が行くと言う筈がないやろなあ・・・。それでもなあ、南龍、一日でも早く病院へ行けばそれだけ早く病気がなおると、役所の衛生課の人も言っていたし、叔母さんもそう思うんやけど・・・」


私は喰べかけた柿を手に持ったまま、じいっと叔母を見つめた。すっかりやせこけた顔や茶色っぽく乾いた髪の毛が、まだ三十五だという叔母を、もうおばあさんに思わせた。私は、ふと叔母が可哀相になった。しかし、私にはまだ父がどうして死んだのか解らず、又死んだとは信じられず、ただ父さえおれば今までのように、たった二人でも楽しく暮していけると思えて仕方がなかった。

「いやだ!」

私は父が今でも、どこかから帰って来てくれそうな気がしてこう言った。
 
「叔母さんだっていやよ、いやがる南龍に、無理に行きなはれなんか。しかしお前も何時までも子供だと思っていたら大変よ、もうお父さんはいてはれへんのやで」


叔母は力なく肩を落し、さも情けなさそうにつぶやきながら、皮をむき終った柿を盆の上に置いた。置かれた柿はダルマのように、赤い体をころんころん動かしていたが、しばらくするとそれも静かになって、ぽっと、思い出したようについた電灯の光にみずみずしく光っていた。


そんな事があってから、叔母はあまり私の病気の事や父の事を口にしなくなり、毎日町の工場へ通うのに日を送っていた。私は家の中にいて、漫画本や冒険本にもあき、働いている叔母を少しでも手伝おうと思って、家の中や土間などを掃除するようになった。

叔母はそんな事をしなくてもいいと言いながらも喜んでくれた。私もうれしかった。

その日も私は何時ものように土間を掃いていて、隅に下駄箱があるのに気付いた。私はそこを掃除しようと思い、中にある物を全部外へほうり出した。はきものは大部分叔母の下駄や草履であったが、一番下の箱の奥から一足の靴が出て来た。

「あっ、お父さんの靴だ!」

私は思わずそう叫んで靴を両手に持ってみた。やっぱり父がはいていた靴だった。左の方が外側ばかりいたんでいるのだから、たしかに父の靴だった。父の左の足が少しびっこだったので、靴にこんな癖がついているのだった。私が毎日、会社へ行く父のためにみがいた靴だから、私はそれを一番よく知っていた。しかし、この靴をはいていた父はどこへ行ったんだろう。私は日当りに靴を揃えて考えてみた。


「本当にお父さんは死んだんだろうか、『この糞たれ奴、お前さえいなければ、おれは何時でも死んでやるんだが・・・』そう言っていた父がどうして死んだろう?


うそだ! うそだ! お父さんはどこかへ用事で行っていて今に帰って来る。しかし、そうしたら、この靴は一体誰れのものなのだ。お父さんのものだ。そうするとやっぱりお父さんは・・・」
 

私はもう一度靴に手をふれてみた。靴の底には父の足跡があって、そこには灰色の黴が一面に生えていた。長い間はかないせいなんだろう。私はふと悲しくなった。そして、父がもう二度とこの靴を履くことがないのを私は、その時はっきり意識した。もう父は死んだんだ。私は靴の底に生えている灰色の黴を見つめながら、一人取り残された淋しさをひしひしと身に感じた。


私はその日の夕方、工場から帰ってきた叔母に言った。

「叔母さん、僕、病院に行く」

私は父がいないのなら、どこへ行ってもかまわないと思った。父のいない所に、私もいたくなかったからだった。

「どうして急に南龍はそんな事を言いだすの?」

叔母は驚いた表情で私の顔を見た。
 
それから二、三日経って、雨雲が重くたれて、あの父の靴底の黴を思わせる灰色をした夕暮れに、私は病院へ行くため、町の踏切りで叔母と手を振って別れた。

 

崔 南龍(本名)さんの略歴
1931年2月22日、神戸に生まれる。韓国籍。1941年発病。父が自殺し、再婚の母は協議離婚。入所まで親戚の家を転々とする。1941年7月15日、奈良県大和高田から邑久光明園に収容される。入所時は小学3年だった。生活記録集『孤島』(編・共著 初版第一集1961、第二集1962 私家版)、作品集『猫を喰った話』(2002 解放出版社)。