岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?
魚住 昭
里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でアヘンについてこう語っている。
〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった〉
読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。
岸がつづけて語る。
〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが、満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからですね〉
茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係ではなかったと言いたいらしい。
たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。
岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」という。
しかし、これは残念ながらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。
〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次のことが真実である事を誓ひます。
1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に参りました。私はそれ以前天津に居つたのであります。
1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を売つて呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシヤから来る途中にあると云ひました〉
里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大部分は中華航空機で運ばれてきたことなどを語っている。
問題は興亜院などに送られた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知っているはずだが口をつぐんでいる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。
そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金ニ割当テラレル為東京ニ送ラレタ〉という衝撃的な記述があった。
『週刊現代』2016年8月13日号より