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心のたねを言の葉として

フランス  最後の旅路、心穏やかに 認知症の最適環境を探究  余命より生活の質求めて

(50)フランス  最後の旅路、心穏やかに 認知症の最適環境を探究  余命より生活の質求めて

 
2023年07月01日 00時02分
 
 
 その「村」には、小学校の先生や企業の副社長、農業、大学教授などの職を退いたお年寄りが住んでいる。過去の履歴はさまざまだが、約120人の「村人」には一つだけ共通点がある。全員が認知症患者ということだ。
 
 
 フランス南西部の町ダクス。温泉療養地として知られる町の郊外に通称「アルツハイマー患者の村」が開設されたのは2020年だった。介護士のほか医師、認知症の研究者、ボランティアら約200人のスタッフが、代わる代わる患者の世話や診療に当たる。
 
 
 単なる高齢者施設ではない。認知症患者に最適な生活環境を探究し、今後の医療や介護に役立てる目的もある。
 
 
 記憶や見当識を失う進行性の病、認知症は年を重ねれば誰もが発症する可能性がある。それぞれ人生の風雪を耐えた先に、この病を得た人々が何を恐れ、何に安らぎを覚えるのか。2022年9月のある晴れた午前、村を訪ねた。
 
 
 
「アルツハイマー患者の村」の理髪店で散髪を終え、笑顔を見せる村人の女性。村人たちは月1回、ここで散髪することができる=2022年9月、フランス南西部の町ダクス
 「アルツハイマー患者の村」の理髪店で散髪を終え、笑顔を見せる村人の女性。村人たちは月1回、ここで散髪することができる=2022年9月、フランス南西部の町ダクス

 

 

 ▽地図を広げて
 
 
 松が点在する5ヘクタールの敷地。一部木造の5棟の施設には村人の居室のほか食料品店、理髪店、カフェ、音楽ホール、図書室もある。小さな農場や池を配した公園もある。
 

 「施設の理念は(これまでのような)生活をすること」と広報担当のマチルド・シャロン・ビュルネル(43)が言う。
 
 
 図書室はダクスに住む一般の住民にも開かれ、交流の場となっている。村人が希望すれば、ボランティアが付き添って町の映画館やラグビー試合の観戦もできる。
 

 図書室にある雑誌の表紙には、往年のスター、ジャンポール・ベルモンドブリジット・バルドーが笑顔を見せていた。マチルドは「村人の平均年齢は約80歳。その世代が親しんだ文化は、特に意識して集めるの」。
 

 重要なのは、全国や地域など各種の地図だとも言う。「開所当初は気付かなかったけれど、村人が自分の人生を振り返るとき、地図を広げて聞くと話が弾む」
 

 認知症は不思議だ。直近のことはすぐ忘れても、身体の奥深くに残る記憶がある。それをマチルドは「感情的記憶」と呼び、「意識された記憶」と区別する。例えば、子どもの頃に覚えた歌やことわざは長く残る。きっかけがあれば自然に出てくる。認知症が進んでも、ピアノの前に座ると「エリーゼのために」を正確に弾く村人もいる。
 
 
 村人の一人ジェームズは、かつてサッカーの指導者だった。認知症の影響で発話に障害があり、入所前は誰とも話さなかったが、ここで再び周囲と会話を始めた。
 
 
 「ボールを贈ったのがきっかけ。何かを思い出したのね。障害を恥じる必要がないことに自ら気付いて、他の人に関心を向けるようになった」
 
 
 英国生まれのジェームズは20代でフランス女性と結婚し、以来フランス語を話してきた。だが、今後認知症が進むとフランス語は徐々に忘れて、幼少期に覚えた英語に回帰していくのだという。
 
 
 ▽不安と恐怖
 

 運動室の前で会ったシャルルは握手の際、おどおどしているように見えた。「1940年生まれ…。43歳だ。人見知りというわけではないけど、(話すのに)他の人より努力が必要でね…」
 
 
 
 
「アルツハイマー患者の村」のカフェを出たところで、ボランティアと談笑する村人たち。奥の建物は、村人の居住棟=2022年9月、フランス南西部の町ダクス
 「アルツハイマー患者の村」のカフェを出たところで、ボランティアと談笑する村人たち。奥の建物は、村人の居住棟=2022年9月、フランス南西部の町ダクス

 

 
 認知症患者には共通する感情がある。不安や恐怖などだ。一部の村人の居室では、洗面所の鏡が紙の装飾で覆われていた。「鏡に映った自分を見て、『知らない人がいる』と不安になるから」と居住棟の責任者ガエル・デスプレ(28)が鏡を隠す理由を説明する。
 
 
 村人の不安は、自らに課される義務とも結びついているという。だから、村では起床や就寝、入浴、食事などの時間を特に取り決めない。医師や看護師も白衣を着ない。「診療だ」と身構えなくても済む配慮だ。
 

 食料品店や理髪店では原則として、金銭のやりとりがない。計算による混乱を避けるためだが、軽度の認知症の場合「支払わない」ことで生じる不安もあるという。
 
 
 「とにかく村人を孤立させない。寄り添い、親身になり、好意を示すこと。これらが不安を取り除く秘訣」とマチルドは言う。「村人の多くは、ここで一生を終える。この村が余命の延長に寄与しているのか、それはまだ分からない。でも、重要なのは余命ではなく、生活の質だと思う」
 

 ▽ばら色の人生
 

 ボランティアのマリフランス・アレギ(73)は、村人の「合唱の集い」を手伝っている。応募した理由を尋ねると「離れて住む94歳の母親が認知症だから」。
 
 「母は何とか私が分かる。里帰りすると一緒に歌うの。その経験がここでは生きている。認知症の方が何をしてほしいのか、してほしくないのかが多少は分かる」
 
 
 現役時代は警察署で働き、ホームレスの世話をする団体にも所属していた。「ここでの仕事は楽しい。みんなよく歌うし、笑う。大好きよ」
 
 
 今日は何を合唱したのか聞いてみた。柔らかな笑顔とともに「ばら色の人生」という答えが返ってきた。(敬称略、文・軍司泰史、写真・澤田博之)
 
 
 
◎取材後記「記者ノートから」
 
 
 村の正式名称は「ランドの村 アンリ・エマニュエリ」という。ランドはダクスが属する県名、エマニュエリはオランダの認知症施設にヒントを得て開設を推進した同県の下院議員の名前だ。
 アルツハイマーなど認知症の研究施設とも位置付けられており、建設費は2880万ユーロ(約41億円)と平均的な高齢者施設の2倍近い。大部分は県費が当てられ、国や地域圏、町などからも公費が拠出された。
 脳神経学者や心理学者、作業療法士運動療法士、言語治療士ら数多くの専門家が村人の世話や診療、認知症の研究に携わる。年間700万ユーロの運営費の半分以上は公費で賄われ、入所者の負担は月2千ユーロとフランスの平均値に抑えられている。これが、さまざまな経歴や社会階層の人々が集まる背景にある。

 

 

 ※筆者は共同通信編集委員、写真は共同通信契約カメラマン。年齢は2023年7月1日現在。