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心のたねを言の葉として

戊辰戦争 逃げ回るだけの農民

戊辰戦争 逃げ回るだけの農民

 

 

会津図書館館長の野口信一

 「会津にすれば売られた戦争だった。薩長のさじかげんで避けられたはず」

 すでに将軍徳川慶喜会津藩松平容保(かたもり)も恭順、謹慎していた。しかし新政府側は進軍を止めない。
 「彼らは殿様の首を出せと言う。それは藩士にとっては許せないこと。侍のプライドとして『はい、降参します』はありえない。攻められたら戦わなければ、という思いは強かった」
 結果は凄惨(せいさん)な籠城(ろうじょう)戦に。


 会津藩と同盟を結び、東北諸藩で最後まで戦ったのが庄内藩だった。藩主酒井家18代当主で、山形県鶴岡市にある致道博物館館長の酒井忠久さん(72)はこう語る。
 「江戸城は開城し、将軍は恭順していた。それ以上、戦争をする必要はなかった。当時の世界の中の日本の位置を考えれば、内戦をやっている場合ではなかったはずです」
 わかっていた人物は新政府側にもいたのでは、という。


 さらに、戦争の惨禍の面に注目する会津の人もいる。
 歴史研究会の会津史談会副会長の簗田(やなだ)直幸さん(65)は市町村合併前の自治体の記録を調べた。その結果、戦争で鶴ケ城の周辺だけで約1100軒以上の家屋が焼失したことがわかり、今年発表した。
 戦場となって焼かれたり、軍から炊き出しを求められた後に火をかけられたり。
 「新政府側だけでなく、会津藩など旧幕府側も行った。あの戦争で迷惑したのは農民など武士以外の人たちです」


 戊辰戦争について、西洋の革命に比べて犠牲者が少なかったと言われることがある。しかし推計で1万3千人以上が戦死した(保谷徹『戊辰戦争』)。