上原妙(対馬丸記念会前会長)当時14歳・宮崎 繊維工場に勤労動員https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4745
前年の年8月22日、私の乗っていた学童疎開船対馬丸が撃沈されて1,484人が死亡したが私は生き残った。そして今いる宮崎の繊維工場に勤労動員に動員されていた。その時の周辺の環境は、対馬丸の話もできないほど。助かってからも友達同士でもその話は一切しない。毎日、毎日、空襲に追われて、戦争に負けたらどうなるんだという考えがよぎっていた。でも、全く情報がないので、沖縄で何が起きているのかは知る由もなかった。
毎日の空襲の中で防空壕に入っていても、沖縄から出てきたときの平和な沖縄のイメージしか頭の中になかったので、1日も早く帰れたらいいなと気持ちしかなかった。ところが先生から、「沖縄が玉砕したらしいよ。でも、あなたたちはしっかりして、帰るまでここで義務を果たすんだよ」と言われたときのショックは本当に大きかった。部屋に帰って、他の人にそのことを話したら、みんなシュンとした。でも、まだ14歳なので、「玉砕」したという実感が湧かない。ただただ、私たちが出てきたときの故郷の豊かで平和だった姿しか頭にないから、早く帰りたいという思いしかありませんでした。
「あの日 昭和20年の記憶」6月26日 (NHK出版)