引き揚げ後が「第二の戦争」◆作家・五木寛之さん、戦後80年に語る【政界Web】
2025年09月26日
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作家の五木寛之さんは1932年に福岡県に生まれ、生後間もなく朝鮮半島に渡った。80年前の終戦時は中学1年生。当時の記憶について「積極的に語りたくない。気持ちの良い話じゃありませんから」と強調しつつも、「あの時」をゆっくりと詳細に語ってくれた。(時事通信政治部 杉本早紀)
同胞への不信
終戦を知った時は驚きました。「神州不滅」と思い込んでいましたから。政府は「治安は維持される。住民は現地にとどまれ」と放送していました。
その通り現地(平壌)にとどまっていたら、ソ連兵が入ってきて略奪や暴行が始まりました。「マダム・ダヴァイ(女を出せ)」と言われ、誰を差し出すのか選別しなければなりませんでした。ボロボロになって帰ってきた女性に、ある母親が「あの人は病気をもらっているかもしれないから近づいちゃ駄目よ」と子どもに言う。本当は土下座して謝らなければならないのに。同胞に対する不信感も生まれました。
発疹チフスも大流行しました。このままでは冬を越せない、政府に頼っていても帰れないと思い、家族で38度線を越えることを決めました。所持品を売ってトラックを雇い、平壌から開城まで行きました。あとは草むらに隠れながら移動しました。
38度線を越えた後からは米軍のトラックで仁川へ運ばれ、米軍の引き揚げ船で博多港に到着しました。船内ではさまざまな恨み、つらみが重なってリンチのようなものもありましたし、海に飛び込んで溺れた人もいました。
「デラシネ」の意識
祖国へ帰ったからといって「万歳」という話ではありません。引き揚げ者にとっては帰国後が第二の戦争です。ソ連軍に女性を提供し、身の安全を守ったというようなさまざまなうわさが流れ、差別された人も多かったです。
私は引き揚げ者を(フランス語の)「デラシネ」と呼んでいます。日本では「流れ者」「根無し草」と訳されますが、そうではなく、生まれたふるさとから政治的・経済的に力ずくで追われ、流浪した被害者のことです。
昔、ラジオの報道番組を制作するため、満州から引き揚げた人に取材しましたが、「いろいろ大変なことがございました」と言うだけで何も話してくれませんでした。
「君看よ双眼の色 語らざれば愁いなきに似たり」という言葉があります。大変だったことやつらかったことを一切語らず、静かにほほえんでいるだけでも、その人が心の中に抱いている憂いが切々と感じられる、という意味でしょう。
私が小説に引き揚げの話をストレートに書かないのは、そういう人々のことを思うと、立つ瀬がないからです。本当に大変な経験をした人は、語れない部分がたくさんあります。