ippo2011

心のたねを言の葉として

ホイットフィールド船長の愛が、ジョン万次郎を生んだ

ホイットフィールド船長の愛が、ジョン万次郎を生んだ

 

 さて、捕鯨船に救助された日本人は多くの場合、ハワイで下船し、日本帰郷の方法を探っています。ところが、万次郎たちを救助したジョン・ハウランド号で生まれた一つのドラマは、ホイットフィールド船長が万次郎の頭の良さに目を止め、また万次郎も捕鯨船に乗り続け、日本人はまだ誰も足を踏み入れたことのない太平洋のはるか東の異国に行ってみたいという希望を抱いたことでした。こうして万次郎以外の土佐漁師たちはハワイで下船しますが、万次郎だけは船に残り、船長と共にニューベッドフォードへと向かいます。そしてホイットフィールド船長の庇護の下で、本格的にアメリカの市民生活や知的世界を学んでいくのです。そのようなことは、万次郎以前の日本人は誰一人としてしたことのないものでした。
 万次郎は、ニューベッドフォードの港から上陸後、ホイットフィールド船長の故郷である隣町のフェアヘーブンで船長の養子のように一緒に暮らしていきます。まもなく彼は、船長の家の近くにあったストーン・スクールという公立学校で小学生に交じって英語を学びます。やがて船長がスコンチカットネックに農場を買って移住すると、万次郎も転校してその地の学校に通いました。その後はフェアヘーブンにあった上級のバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んでいったのです。つまり、万次郎はアメリカの教育システムの中で必死に近代的知識を学んだ最初の日本人学生でした。同時に彼は、船長に連れられて教会へも通うようになりますが、ホイットフィールドがもともと通っていた協会がアジア人の万次郎を人種差別したことに船長は怒り、万次郎を快く受け入れたユニテリアン教会に自分も礼拝所を変えたという微笑ましい逸話が知られています。
 つまり、「ジョン万次郎」を誕生させたとのは、かなりの程度、ホイットフィールド船長の愛情です。彼の公平な誠実さがなければ、中ノ浜村の漁師万次郎は、日本人としてアメリカ社会を最初に深く経験した「ジョン万次郎」となることはなかったのです。その船長は、当初、万次郎が日本に帰郷することに反対でした。当時のアメリカの捕鯨業界では、徳川幕府の厳しい鎖国政策から、たとえ日本人でも海外を漂流後、帰国した者を厳しく処罰することが知られていました。それに加えて、万次郎の成長をずっと見守ってきたホイットフィールドは、「ジョン・マンは鯨獲りがいちばんふさわしい職業」だと見抜いていたのです。
 実際、やがて帰郷した中浜万次郎は、当時としては得難いその知識を薩摩藩土佐藩、幕府、さらに明治政府に存分に使われ、彼自身が思い描いていたのとはかなり異なる人生をたどるのですが、その伝記や記録が示すように、最後まで「鯨獲り」としてもう一度太平洋に出ることを夢見ていました。太平洋こそが、彼の本当の故郷であったと言えるでしょう。
(『アメリカ・イン・ジャパン ——ハーバード講義録』 2025年 吉見俊哉