【展覧会】
没後50年 髙島野十郎展
知られざる「孤高」の素顔 さまざまな視点、探る魅力
文:小松やしほ(毎日新聞記者)日本美術 2025/7/17
◇18日から千葉県立美術館で開催
「没後50年 髙島野十郎やじゅうろう展」が18日、千葉県立美術館(千葉市中央区)で始まる。節目の年に過去最大規模の回顧展として開催する本展では、「月」や「蝋燭ろうそく」などの代表作をはじめ、初期から晩年までの画業を紹介するとともに、その人物像にも焦点をあてる。貝塚健・同館館長に展示の見どころと野十郎の生涯について解説してもらった。また、生前の野十郎と約20年にわたり交流したロシア文学者で早稲田大名誉教授の川崎浹とおるさんに、画家の素顔や思い出を聞いた。
仏教、海外体験、書簡…人物像をたどる 貝塚健・千葉県立美術館長
世の中には、高島野十郎を知っている人と、知らない人しかいない。これまで展覧会の度に買った同じ作品の絵ハガキを比べるような人と、「やじゅうろう」という名前の読みにとまどうような人だ。どちらの方々にも満足していただくよう願っている。
過去20年で、野十郎ほど回顧展が繰り返された20世紀日本の洋画家はいない。そこでは「ロウソク」ばかりが並ぶコーナーや、「満月」の部屋を用意するのが定番だった。だが没後50年を機に開催される本展は一線を画している。制作年代順に作品を見ていただくのでも、題材別に絵をまとめるのでもない。設定した章立ては六つ、「野十郎とは誰か」「時代とともに」「人とともに」「風とともに」「仏の心とともに」「野十郎とともに」。生涯全体を流れるテーマで画業をくくり、ロウソクの絵が異なる章に散在する。展示室で作品と対話していただければ、企画者の意図や期待が伝わるはずだ。
野十郎は福岡県久留米にあった裕福な造り酒屋の五男に生まれた。長兄・宇朗は詩人を目指し、同郷の画家・青木繁を支えた。そんな環境に育った野十郎は画家になりたかったらしいが両親に許されず、旧制八高を経て東京帝国大学の水産学科に学び、優秀な成績を収めた。のちの油彩画技法探求に見る科学者のような態度には、そんな体験がにじむ。大学卒業後は独学で絵を学び、画家として生涯を送った。主に東京の渋谷や青山に住んだが、70歳から最後の15年間は、千葉県柏のアトリエで過ごした。息を引き取ったのは野田の施設で、墓は市川にある。全国6美術館を巡回する最初が千葉なのには、そんな理由がある。
野十郎が生前名を知られなかったのは、絵画の師がなく、弟子もなく、ごく僅かな画家としか交わらず、画壇と無縁の存在だったからだ。公に発表した文章もない。亡くなって5年後、福岡県立美術館で県出身画家の作品を集めた展覧会に1点だけ出品され、人を惹ひきつける描き方によって、「高島野十郎って、だれ?」と注目された。同館はその後、この画家の研究と作品収集、紹介を重ねる。たびたび回顧展が開かれ、今や20世紀の福岡県を代表する洋画家の一人とみなされるようになった。
注目され始めたときは、特異な描き方が印象深く、「ロウソクの画家」「孤高の画家」などと言われたが、取り組んだ題材は幅広い。「孤高」といっても、実家からの援助が途絶えてからも給料をもらうような職につかなくて済んだのは、個展を開くと絵を買ってくれる人が少なくなかったからだ。
本展はこれまで一面的なレッテルで語られがちだったこの画家を、さまざまな側面から広く深く掘り下げようとするもの。野十郎の心に深く根ざした仏教思想、1930年代のフランス体験、残された書簡や証言からうかがえる支援者との心温まる交流。さまざまな視点から画家の人間像とその魅力を探る。すでに野十郎を知っている方には「ロウソク」や「月」だけではない野十郎に出会っていただきたい。これまで知らなかった方には、この機会に新鮮な心で野十郎と向き合っていただきたいと思う。(寄稿)
支えた交わり、照らす灯 偶然の出会い、20年の友情 親しかった川崎浹・早大名誉教授高島野十郎は生涯独身を通し、画壇や俗世間との関わりを避けるように千葉・柏のアトリエに隠せいした。ひたすら画業に取り組んだその生き方から、しばしば「孤高の画家」とも称されるが、ロシア文学者で早稲田大名誉教授の川崎浹さん(95)は、生前の野十郎と約20年にわたり親しい交流を持った。川崎さんといる時の野十郎は、普段とは違った表情を見せていた。
川崎さんが初めて野十郎に出会ったのは、大学院生だった1954年の10月のこと。友人と山歩きをした埼玉・秩父のバス停で立ち話をした。当時、還暦を過ぎていた野十郎はスケッチブックを小脇に抱え、背広にネクタイ姿だったという。「長身で若々しく、今の言葉でいえば、格好いい人でした」
一度きりの偶然のはずが、ひと月後、東京・上野の国立博物館で開催されていたルーブル美術館展で、再び出会った。さらに翌年3月に渋谷のゴヤ美術展で、ひと足先に見終えて会場から出てくるところにばったり。近くの青山にあったアトリエに誘われた。3度の偶然。同じ福岡県出身ということも分かり、そこから野十郎が亡くなるまでの長い付き合いが始まった。
友人を連れてアトリエや個展を訪れては、あれやこれやと議論を交わす。時には銀座や渋谷などの街へ繰り出して食事をする。映画や観劇にも行った。意外にも、野十郎は笑うことの好きな人だったという。「ユーモアがあり、会った時には必ず1回は笑ったという印象があります。興が乗ると『在るに非あらず、在らずに非ざるなり』と口にし、両手を交互に振り回しながら、愉快そうに話していました」
川崎さんは野十郎を「先生」と呼び、野十郎は「川崎さん」と呼んだ。40歳も年の離れた若者との友情は、どうして成立し得たのだろうか。
「不思議ですよね」と川崎さんは笑う。「基本的に対等に話していましたから、年齢の差は感じませんでした。高島さんはやはり孤独だったのではないでしょうか。自身でも意識していない、ぽっかり開いた心の穴に僕が入ったんじゃないか。高島さんの親族から『あなたのことを、あれはもう息子のようなもんじゃと言っておりました』と聞いて、合点がいったことがあります。僕自身、普通の学生と少し違ってアウトロー的なところがあったから、どこか似ているというか、まあ馬が合ったんでしょうね」
「蝋燭」を贈られた時のことは今も鮮明に覚えている。「これはあなたにあげるよと、風呂敷に包んで持ってきてくださった。包みを解いて、絵が現れた瞬間、新しい世界がパーッと開けたような感じがしました」。野十郎は「神社に絵馬を奉納するように、一人一人の心の中に、この蝋燭の絵をささげる気持ちで描いている」と語ったという。
川崎さんは野十郎を「禅的な深い精神性を持った独特の作家」だと評する。「日本文学を世界に紹介したドナルド・キーンのように、いつか絵画界で野十郎を発見して世界に紹介する人が出てこないかと、ずっと夢見ていました」。没後50年を記念する本展開催に「こんなにうれしいことはない」と目を細めた。
■人物略歴
◇川崎浹(かわさき・とおる)さん
1930年、福岡県生まれ。60年代学生運動のバイブルともなったサビンコフ「テロリスト群像」などを翻訳。2008年「過激な隠遁 高島野十郎評伝」でその素顔を伝える。
