ippo2011

心のたねを言の葉として

高い水準の平等を実現したスウェーデン     ピケティ

高い水準の平等を実現したスウェーデン     ピケティ

 

 

 1865~1910年のスウェーデンでは納税額に基づく巧妙な制限選挙制度が採用されており、第一次世界大戦までこれが続けられていた。他国と比べてかなり遅れていたと言わねばならない。イギリスなど他国では十九世紀の間に選挙権が拡大されたが、スウェーデンで投票資格があるのは最富裕層二十%の男性のみだった。しかもこの二十%の有権者の間でも納税額に応じて一票から一〇〇票まで権利が与えられるという、一段と偏ったしくみになっていたのである。裕福であるほど多くの票が投じられるというわけだ。それだけではない。国政選挙では一〇〇票が上限だが、地方選挙では上限がなかった。したがって数十の地方自治体では、たった一人の有権者が票の五〇%以上を握るということが起きた。この有権者は完全な民主制の下で独裁者になったわけである。スウェーデンの首相はほぼ例外なく貴族階級出身で、地盤の選挙区では票の五〇%以上を握っているのがつねだった。


 さらに第一次世界大戦までは、企業や法人も、その自治体に投じた資本と売上高に応じて地方選挙で選挙権を持っていた。今日の多国籍企業にしてみたら、なんとも羨ましい制度にちがいない。彼らはしばしば別の方法で同じ結果を手にしてはいるが、ことさら要求しなくても選挙権が手に入るとなればたいへんなちがいである。


 スウェーデン第一次世界大戦までこのような政治制度を維持していたという事実は、人間の社会が、というよりも支配層が、権力を維持するためには途方もない想像力を発揮して権利構造を設計してのけることを雄弁に物語っている。だがこのことはまた、すくなくとも不平等の度合いに関する限り、ある国の文化に関して決定論は成立しないことを示している。国家というものはごく短期間で変貌しうるのである。


 二〇世紀に入るとスウェーデンは自国の抱える矛盾に直面する。私有財産を聖域化する政治制度と、歴史や宗教などさまざまな理由から他のヨーロッパ諸国よりずっと識字率の高い労働者階級とが共存できなくなったのである。スウェーデン労働組合と発足まもない社会民主系の政党は、富裕層が過度に有利になっている現状を是正し均衡を取り戻さなければならないと確信していた。こうして参政権運動が強力に展開され、1920年普通選挙が実現する。社会民主労働党が1932年の選挙で政権党となり、以後1990年代~2000年代までほぼ切れ目なく政権を担当してきた。


 その後は多党化や右翼政党の台頭などで政局は流動的となっており、スウェーデンの税制は革新性が薄れてきた。その理由として、狭くは租税面の真の国際協調に拒絶的であること、広くは資本主義を超越しようとする姿勢が乏しくなってきたことが挙げられよう。とはいえ1930~80年の社会民主政権では、それまでの政権とはまったく異なる政策の実行に国家の能力が発揮されたことはまちがいない。納税記録や登記簿など所得や資産を示す記録類も、票の配分をするためではなく累進課税を適用するために活用され、税収は教育や医療へのアクセス拡大に充当された。完璧とは言えないにしても、従来とは打って変わった施策である。おかげでスウェーデンは他国より高い水準の平等を実現することに成功した。しかもわずか数十年で、大きな混乱もなく、主に参政権の拡大など国民の政治・社会参加によって成し遂げられたのである。


 ある国が本来的に不平等だとか平等だということはないと示した点で、スウェーデンの例は興味深い。肝心なのは、政権運営を担うのが誰か、何をめざすのかということである。この意味で歴史の歩みは、すくなくとも平等・不平等に関する限り、決定論的な見方を排除するものだと言えよう。


(『自然、文化、そして不平等』 2023年 トマ・ピケティ 村井章子訳)