「水の声 土の記憶」展へのプロセスとステートメント 中島洋
アーティストとよばれる表現者の役割、特に現代アートにおいては多様な視点を提起することではないかと思っている。さらには、表現者にとって、制作のプロセスにおいても、多様な発見や学びがある。それは、あらゆる芸術や文化への脈絡のない好奇心を続ける人生の積み重ねでもある。
私の20代前半の映像表現の一つに《Waters Room》がある。台所の窓から見える木々の揺れを撮った短い作品だが、手前に水道管の蛇口がある構図になっている。なぜ蛇口を入れたのか。
1992年にシアターキノを設立する時、運営に専念するため制作活動を休止した私は、映画館の運営と共に、ワークショップや講座、大学、街づくりなど様々な文化の場づくりやマネジメントに関わってきたが、その間も、水、水道管、窓、身体、記憶、メディアといったものに関心があった。制作を再開した2018年の《公平中立》では、紅櫻公園の池に約200個のレインボーカラーの風船と公平中立というブイを浮かべて、メディアの今を見つめた。《水の部屋 世界の窓》では500m美術館に《Waters Room》の8ミリをデジタルに変換した3種の映像と、リアルな水道管を設置して、フィクションと日常の狭間から世界を見ようとした。
翌年の紅櫻公園での《水がなくなる日》では、水の起源を考察し、水資源の危機に対して、水が出ない水道管30本を池に設置した。札幌市民交流プラザSCARTSに採択された《記憶のミライ》では、60~70年代の8ミリ映像を市民から提供いただき、名もなき人々の積み重ねこそが歴史を作ってきたのだと表現しようとした。それ以上に43時間分も集まった膨大なプライベート映像は、ちょうど新型コロナ禍にあって、ソーシャルディスタンスとは真逆の距離の近さや、小さなコミュニティ世界にある暮らしの記憶が、グローバリズムと逆の生き方の知恵と工夫に示唆を与えることになった。そしてこの映像の中に、夕張や三笠など空知の炭鉱の閉山で札幌に移住してきた人々のものがあった。それは北海道の地域の人々の集積で札幌が成立していることを学ぶことになり、《Wakka》の映画制作に繋がることになった。
《Wakka》に関しては、パンフレットが詳しいので、ここでは多くを語らないが、北海道の歴史、特に空知の近代化の流れを、2年前に急逝された夕張市石炭博物館館長の吉岡宏高さんに教示してもらったことが根底にある。映像と音だけの本作は、余白が多く、多くの方々に多様な視点を提起いただいた。特に水と土の関係、土が持つ記憶は制作中に感じた「死者と新しく出会い直す」と密接に結ばれ、札幌芸術の森美術館での《死者の唄 水の声》の根拠にもなっていった(WORKSファイル参照)。《Wakka》の上映と対話や批評にふれ、より思索を続ける旅が始まった。それは5億年の土、原始の海、自然の循環システム、空海、野生の思考、縄文、人新世、アニミズム、人類学へと広がっていった。
地球の歴史46億年の中で、5億年前に植物が上陸したことで、緑と土に覆われた大地が誕生した。土は、植物や昆虫の躍進、恐竜の消長、人類の繁栄に場所を貸すだけでなく、生き物たちと相互に影響し合いながら、5億年を通して変動、動植物が見せた土壌への適応力、1万年かけてヒトが編み出した農業の知識、技術、知恵と工夫、土を巡る自然現象の精緻さ。生き物はみな元をたどれば栄養分を「土」から獲得している。夕張炭鉱住宅跡の土に感じた記憶は、私たち生き物は全て水と土から生まれてきているのだと思わせてくれる。
どんな優れた建築物や芸術作品、AIですら、私たちの身体も含む自然の造形や複雑さ、その循環システムには及ばない。そのシステムを、縄文人と呼ばれた人々や空海を代表とする修行僧の人々は感じていたのではないだろうか。国家になる前の状態の人間のものの考え方がどういうものであったのか。空海は修行の中で、地中の水の流れを読む能力、地表だけを見ていてはわからない水の動きを察知する力が求められた。やがて自然の要を読む力、山の形や植生、地表の繊細な変化を、自然の声を聞くことが出来るようになった。
レイチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』で感覚や直観に触れる中から「野生の思考」を感じ、生き物の根源がそこに在るのではと語った。人類が地球の地質や生態環境に多大な影響を与えたことが明らかになりつつある「人新世」に対して、人間以外の存在(動物や植物、菌類など)の意識や感覚を探れないだろうか。
《Wakka》において、蛇口は近代や文明のメタファー、テクノロジーの象徴として、またいつかは朽ちていくもの、水や土は永遠に残るものとしても描いてみた。私たちは今、水道管の蛇口をひねることが出来ない、その困難さを引き受けて生きようとしている。水が出ることは願望でしかないと感じていた。
だが、蛇口を土に置いてみて考えたことは、土と蛇口という物質が相対しつつ、視覚的に解け合うことはありうるのではないか。
私はアイヌ民族のイオマンテ(熊送り)を観たとき、石にも虫にもあらゆるものに、もともとカミが宿っていること、カミでいっぱいの自然を尊重しながら生きること、生と死、人間と動物、生者と死者の世界が一つに繋がっている〈メビウスの帯〉の在りようを学ぶことになった。そしてカミの世界のアチラとコチラを行き来すること、生死を越えて循環する連絡通路を持つことが、今最も大切なのではないか。それは「人間だけが必ずしも主人公ではない」という、人間中心主義への問いかけであり、人間にとっての外部、他者性を持つことではないか。芸術はその回路の一つになりうるのではないだろうか。
レヴィ=ストロースは著作で地球の危機を予言した。
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
★思索の旅に寄与してくれた本
レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』、坂本龍一・中沢新一『縄文聖地巡礼』、坂本龍一・福岡伸一『音楽と生命』、藤井一至『大地の五億年』、橋本淳司『水がなくなる日』、千賀裕太郎『ゼロから理解する 水の基本』、伊藤亜紗『手の倫理』、奥野克巳『はじめての人類学』、田村典江他『人新世の脱〈健康〉』、加藤精一『空海入門』、奥野克巳『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』、奥野克巳・清水高志『今日のアニミズム』、佐々木高明『日本文化の多様性』、知里幸恵『アイヌ神謡集』、映画《チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ》パンフレット、中島岳志《Wakka》パンフレット