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心のたねを言の葉として

無自覚の「特権」直視を 関東大震災から101年

無自覚の「特権」直視を 関東大震災から101年[安田菜津紀エッセイ]
2024年9月16日

 

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 2021年10月31日、前回衆院選の投開票日、私はTBSラジオの選挙特番に出演していた。スタジオから日本維新の会馬場伸幸幹事長(当時)に電話をつないだ際、ヘイトスピーチ対策の公約について尋ねた。その中に、「日本・日本人が対象のものを含む」という文言があったからだ。

 どんな立場の人間であれ、言葉の暴力の的にしてはならないが、16年に施行されたヘイトスピーチ解消法の立法事実には、マジョリティーとしての日本人に対する「罵詈(ばり)雑言」などは含まれていない。ヘイトスピーチは差別を扇動し、マイノリティーをより脆弱(ぜいじゃく)な立場に追いやることにその深刻さがある。けれども馬場幹事長の返答は、「(ヘイトスピーチを)幅広くとらえる」と要領を得ないものだった。

 維新や馬場氏だけの問題ではない。「在日だって日本人の悪口を言う」「そういう逆差別だって深刻」と、ヘイトスピーチとそうではないものを並列し、差別の本来の深刻さを無効化するような言説は流布され続けている。力の不均衡や権力勾配、それが綿々と続いてきた歴史的背景を「無視」できることも、マジョリティーの「特権」ではないだろうか。

 その文脈で「属性でものを語るな」という言葉も耳にするが、属性でマイノリティーを排除するヘイトスピーチと、差別を受けてきたがゆえにマジョリティー側から身を守ろうとしてしまう反応を、同列に並べることはできないだろう。

 巨大なヘイトクライムは、ある日突然、空から降ってくるのではない。関東大震災朝鮮人虐殺も、「朝鮮人は何かしでかすはずだ」という、マジョリティーからすれば「小さく」見えるかもしれない差別の積み重ねの上で起きたものではなかったか。

 あの震災から101年。無自覚な「特権意識」は、誰でも陥る恐れがある。けれどもそれに気づいたとき、向き合おうとするのか、開き直って終わるのかは雲泥の差だ。

 人権の問題を「仲良くしよう」「思いやりを」と単に均(なら)すのではなく、背後にある不平等の構造そのものを認識し、覆す取り組みこそ求められているのではないだろうか。(認定NPO法人Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)=第3月曜掲載