「第四の被ばく」米軍医報告書 “重度の白血球減少” 指摘
2024年9月14日 NHK
広島と長崎への原爆の投下、第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件に続く「第四の被ばく」とも言える事件の詳しい実態が初めて明らかになりました。
66年前の1958年、海上保安庁の船が太平洋上でアメリカの水爆実験に遭遇して被ばくした事件では、翌年、乗組員の1人が急性骨髄性白血病で死亡しましたが、国は、被ばくの線量は微量で直接関連づけることは困難だとしました。
今回、NHKが、被ばく直後に派遣されたアメリカの軍医の報告書を入手して分析したところ、乗組員の一部に重度の白血球の減少が起きるなど体に深刻な異常が起きていると指摘していたことがわかりました。NHKスペシャル「封じられた“第四の被曝(ひばく)” -なぜ夫は死んだのか-」
【放送予定】9月15日(日) [総合] 午後9:00~9:54航海中に水爆実験に遭遇
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測量船「拓洋」 米軍医の報告書を入手 分析すると…
しかし、船の上での測定値から算出した被ばく線量が微量だなどとして最終的に「健康への影響はない」と結論づけられていました。
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齋藤紀医師 報告書の分析を行った齋藤医師は「体の異常の解釈が出来ないと軍医は苦しんでいるが、結論では微量な線量だということで体の異常を打ち捨てている。問題は、矛盾するからといって放射線の影響そのものをないことにしようという姿勢をとってしまったことだ」と指摘しました。
被ばく当時の状況
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仲田次男さん 「拓洋」の甲板員だった仲田次男さん(90)は「幹部の人たちは聞いていたかもしれないが、われわれは一切知らなかった」と話しました。海上保安庁の資料によりますと、核実験の情報が寄せられた翌日、14日の正午ごろ、「拓洋」が危険区域から西におよそ300キロの海域を航行中、「かなり強い放射能気団」に遭遇し、「急激な放射能汚染」を検出したということです。
「拓洋」の甲板で計測された放射線量は、14日の午後0時10分から急激に増え始め、その後も長時間、増加が続きました。
このころ、「拓洋」の周辺ではスコールが降ったということです。
同じ14日、大山さんの手記には「距離と経過時間から拓洋は正に放射能塵拡散帯の中心軸付近にいることになる」、「この汚染気団からすみやかに離脱するには南方へ避退するのが賢明であろう。そこで観測を一時中止し南下」などと記されています。
2隻は観測を中止し、避難のため急きょ、南太平洋のラバウルに向かいました。
7月18日の手記には、「乗員の大多数に白血球数異常低下が認められるので、なお警戒を怠らぬこととした」と緊迫した状況が記されています。![]()
巡視船「さつま」 また、取材のため「さつま」に同乗していた新聞記者が撮影した写真や映像には、乗組員が除染のため、ホースで船体に水をかけている様子がおさめられていました。
海水からは通常より高い放射線量が計測されていましたが、乗組員によりますと、除染に海水を使うよう指示されたということで「さつま」の砲員だった巻木慶三さん(94)は「真水はよけいに積んでませんでしたから海水をくみ上げて3日間続けて除染しました」と証言しました。ラバウルに到着したあと、乗組員にはアメリカの軍医による身体検査などが行われ、被ばくから24日後の8月7日、2隻は東京に戻りました。
当時のニュース映像には、乗組員を出迎える家族たちの姿が残されています。アメリカの核実験と日米関係
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アイゼンハワー大統領(当時) 事件には不明点も
この事件では、被ばくによる乗組員の体への影響について、明らかになっていないこともあります。
2隻の乗組員は、帰国したあとも複数回、検査を受けていて、当時の厚生省の協議会は、「異常は認められなかった」などと一貫して影響を否定しました。
また、被ばくから1年後の1959年8月に急性骨髄性白血病で亡くなった永野博吉さんについて東京大学理学部と当時の放射線医学総合研究所が遺体の検査を行いました。永野さんの妻 澄子さん「『秘密、秘密、秘密』と口止め」
被ばく事件の翌年、急性骨髄性白血病で死亡した「拓洋」の首席機関士、永野博吉さん(当時34歳)の妻・永野澄子さん(当時93歳)が、ことし5月に亡くなる前、取材に応じました。
博吉さんが太平洋上で被ばくしたのは澄子さんと結婚してまもない1958年7月で、2人の結婚生活はわずか3年だったということです。被ばく直後の博吉さんの体調について澄子さんは「体がだるく、毛が抜けたと本人から聞いた」と話しました。
そのうえで、「船で帰ってくる途中から毛が抜け始めたらしいです。帰国したあとはももから下の足の毛がすっかりきれいに抜けてしまっていました。『また毛が抜けた』と言っていたことは覚えています。本人は気にしていました」と話しました。
その後、博吉さんは船での勤務を再開しましたが、事件からおよそ1年後、歯ぐきからの出血が止まらなくなり、入院しました。
病室には大量の血がついたシャツが置かれていたこともあったということです。被ばくから1年後の1959年8月3日、博吉さんは亡くなりました。
博吉さんが亡くなった日、国の役人から口止めされたということです。![]()
永野澄子さん








