ippo2011

心のたねを言の葉として

1945年8月11日 満州 甘粕

 甘粕が「全員集合」の指令を出した十一日は、二十四時間後にはソ連軍が新京になだれこんでくると予測され、通化に退去を決めた関東軍総司令部もまだ新京死守の姿勢をとっていた時期である。この時に千人を越す集団を避難させる汽車の手配は、さすがの甘粕にもできなかったのであろう。関東軍は軍の家族だけをいち早く逃がすため、限られた列車の一部をそれに割り当てて、今日まで悪名を残した。その中で、甘粕は軍とどのような交渉をしたものか、満映の応召者の家族だけは十一日の夜に汽車で出発させている。
 この夜の甘粕の行動を、新京憲兵隊長であった同期生・飯島満治が「追悼余録」に書き残している。「甘粕は関東軍と交渉し、満映の応召家族を南方に疎開させることとし、八月十一日午後十時新京発の列車で出発させ、自ら満映の提灯を振って送った。その帰り十時半頃、僕は甘粕の訪問を受けた」
 大杉事件直後も文通を絶やさなかったほどに親しい二人である。この夜、甘粕は「早く病気を直せよ」といっただけだが、飯島は、甘粕は死を覚悟したな——と直感した。

                                                            (『甘粕大尉』 角田房子)