子どもを川に流し、女性は声を上げて泣いた 「死が当たり前」の逃避行 旧満州生まれの橋本珠子さん(83)
2023年8月12日 東京新聞
<戦後78年 20代記者が受け継ぐ戦争㊦>さいたま支局・飯塚大輝(29)
雨がしとしとと降る日だった。「おばちゃんについて行きなさい」。母に言われ、隣の家の女性と川に行った。女性は1歳か2歳になる幼い息子を抱いて川に入り、息子を水面に横たえた。その子は必死に手足をばたつかせながら、下流へ流れていった。女性は川から戻ると母に抱きつき、声を上げて泣いた。旧満州(中国東北部)の満蒙まんもう開拓団で長野県出身者が入植した黒台信濃村に生まれた橋本珠子たまこさん(83)=長野県飯田市=は当時5歳ぐらいだが、脳裏に今も焼きついている。1945年8月の旧ソ連の対日参戦で、近所の40~50人で帰国を目指し広大な地を歩いていた。成人男性はほとんど徴兵され、父親を含め2人のみ。30人は子どもだった。
男の子をおぶっていた橋本さんの母が足をけがし、「迷惑をかけられない」と女性が思い詰めた末のことだった。女性は3歳か4歳ぐらいの長男を抱えていた。
「なぜあんな場面を私に見せたの」。橋本さんは終戦後しばらくして母に聞いた。母は「おばさんを一人で行かせたら、川に身を投げてしまうと思った」と明かした。
わが子を川に流す、わが子にそれを見せる。最悪の決断の連続。「人が死ぬのは、ご飯を食べるより当たり前だった」。ソ連軍の攻撃や現地住民の略奪を避け、ぬかるんだ茂みを進んだ。道中には、殺害された開拓団や親に捨てられた子どもの遺体が転がっていた。
◆やっとの思いで帰国船に乗り…女性が次々と海に身を投げた
冬は旧奉天=瀋陽しんよう=の収容所で過ごした。夜、鈍い笛の音が鳴る。ソ連兵の侵入を告げる合図だ。ソ連兵は子どもの前でも構わず女性を襲い、銃殺した。
ある朝、3歳下の妹満津子みつこさんが顔の前で人さし指と親指を近づけて「ちょっとでいいから白いご飯ちょうだい」と母にせがんだ。当時の食料は、死体運びなどの対価として得た穀物のソルガム。願いはかなわず、妹は2日後に病気で亡くなった。
逃避行を始めてから1年。帰国船に乗った。甲板に出られる時間になるたび、誰かが海へ身を投げた。ソ連兵に妊娠させられ、「家に帰れない」と思い詰めた女性らだと後で知った。住んでいた地区の200人中、帰国できたのは61人、子どもは90人のうち9人だった。
「人が死んでも感情が湧かなかった」という橋本さん。それでも、心には深い傷を負っていた。長男を産んだ約1年後、何日か続けて同じ夢を見た。子どもが息子を抱いて連れ去ろうとする。子どもは川に流れていった男の子だ。「自分が大きかったら、抱っこして連れて帰れたのでは」。罪悪感にさいなまれた。
◆「戦争で人は人間性を失う」…その経験を今、伝える
橋本さんは昨年、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で語り部を始めた。ずっと依頼を断ってきたが、きっかけはロシアのウクライナ侵攻だった。ウクライナの子どもが戦火を避け、田舎の親族宅へ向かっているというニュースを見た。「あの時の私たちと同じだ」。自然と涙があふれた。
橋本さんたちは一度、帰国を諦めて集団自決を決めていた。直前に通りかかった日本兵に「生き延びて、この惨状を日本に伝えないと駄目だ」と言われ、踏みとどまった。橋本さんは「戦争で人は人間性を失い、自分の損得しか考えなくなると学んだ。その経験を伝えることが使命」。
私の前任地は橋本さんが住む県南部だった。多数の開拓団を送り出した地域で、帰国後の苦労もよく聞いた。橋本さんも学校の弁当が用意できず「満州乞食」と言われたという。多くの帰国者が荒れ地に再入植し、今では果樹園が広がる。
戦争に人生を翻弄ほんろうされ、平和を願う橋本さんたちの存在を県外でも知ってもらいたいと思い取材した。実は、私の祖父も旧満州生まれ。祖父は当時を語りたがらないが、話を聞かないといけないと思った。「伝える」ためには「聞く」ことだ。戦争経験者に話を聞いてみてほしい。
満蒙開拓団 日本国内の農村の困窮や人口増加への対応、国境防衛などの目的で、旧満州国(1932〜45年)に全国から約27万人が送り込まれた。敗戦後は関東軍に置き去りにされ、ソ連軍や現地住民の襲撃、病気や飢え、集団自決などで約8万人が死亡したとされる。多数の中国残留邦人も生んだ。長野県は県南部を中心に全国最多の3万3000人を送り出した。◇
ロシアのウクライナ侵攻は1年を超えた。日本でも敵基地攻撃能力の保有や防衛予算の倍増が現実味を帯び、きな臭さが漂う。太平洋戦争終結から78年。戦争の悲惨さを忘れていないか。今年も20代の記者が、過ちを繰り返さないとの思いで戦争体験者を取材した。あの戦争は遠い歴史になり、生の声を聞く機会も減りつつある。その貴重な時間を記録し、次の時代へとつなぐ。