ippo2011

心のたねを言の葉として

空と風と星と詩     茨木 のり子

空と風と星と詩     茨木 のり子(教科書本文)

 


韓国で「好きな詩人は?」と尋ねると、「尹東柱」という答えが返ってくることが多い。


序詩
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)


二十代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風は、若者をとらえるに十分な内容を持っている。
長生きするほど恥多き人生となり、こんなふうにはとても書けなくなってくる。
詩人には夭折の特権ともいうべきものがあって、若さや純潔をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をもひきつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。
夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。
一九四五年、敗戦の日をさかのぼることわずか半年前に、満二十七歳の若さで福岡刑務所で獄死した人である。
最初は立教大学英文科に留学、やがて同志社大学英文科に移り、独立運動の嫌疑により下鴨警察につかまり、福岡へ送られる。
そこで中身のよくわからない注射をくり返し打たれたという。
亡くなるまぎわには、母国語で何事かを大きく叫んで息絶えたそうだが、その言葉が何であったか、日本の看守にはわからなかった。
だが、「東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました。」という証言は残った。
痛恨の思いなくしてこの詩人に触れることはできない。
いずれは日本人の手によって、その全貌が明らかにされなければならない人だったし、その存在を知ってから私も少しずつ尹東柱の詩を訳しはじめていたのだが、彼が逝ってから三十九年目にあたる一九八四年に、伊吹郷氏によって、全詩集『空と風と星と詩』の完訳が成った。
私の気勢はそがれたが、伊吹郷氏のみごとな訳と研究には完全に脱帽で、可憐な童謡にいたるまで日本語で読めるようになったのは、なんともうれしいことだった。
原詩を知る者にとっては、なみなみならぬ労作であることがわかるが、そればかりではなく、尹東柱の背景を知るために徹底的に足で歩いて調べあげた情熱にも打たれる。
留学先の東京、京都、福岡刑務所とその足跡をたどり、八十代の元特高刑事とも会い、あたうかぎりの努力をして、ついに獄死の真相を突きとめられないことを記している。
残念ではあるが、その実証精神にはむしろ信頼がおける。動かぬ証拠で、いずれの日にかは明瞭になってほしいところである。
伊吹郷氏にお目にかかった折、調査の過程での日本検察関係の壁の厚さというものをつぶさに聞くことができた。
四十年前のことである。
なぜそんなに秘密主義、隠蔽主義なのだろうか。
日本人であれ韓国人であれ真摯な研究者に対しては、もっと資料を公開すべきではないか。
そしてまた、尹東柱のかつての下宿先やゆかりの地など訪ねて証言を求めようとしても、だれ一人彼を覚えている日本人もいなかったという。
写真を見ると、実に清潔な美青年であり、けっして淡い印象ではない。ありふれてもいない。
実のところ私が尹東柱の詩を読みはじめたきっかけは彼の写真であった。こんなりりしい青年がどんな詩を書いているのだろうという興味、いわばまことに不純な動機だった。
大学生らしい知的な雰囲気、それこそ汚れ一点だにとどめていない若い顔、私が子供のころ仰ぎみた大学生とはこういう人々が多かったなあというあるなつかしみの感情。
印象はきわめて鮮烈である。
それなのに日本人のだれの記憶にもとどまっていなかった。
英文学演習八十五点、東洋哲学史八十点とその成績も優秀なのに、教授の印象にもとどまらなかったのだろうか。
魯迅における藤野先生のような存在も一人だになかったのだ。
尹東柱の深い孤独をおもわざるを得ない。


Wikipedia
尹 東柱(ユン・ドンジュ、朝: 윤동주、英: Yun Dong-ju、1917年12月30日[1] - 1945年2月16日)は、中華民国時代の満州・間島出身の朝鮮民族の詩人である。日本統治時代に朝鮮語で多数の詩を創作したが、日本の刑務所で27歳の若さで獄死。死後に『空と風と星と詩』などの作品が知られるようになった。一部の資料によると、存命時は「日本籍」であったとされる。