なぜ熊谷が狙われたのか
「働く人の家や暮らしを焼き払うことで、日本の生産力を破壊する」。これが、1945年の3月以降工場などへの精密爆撃から無差別爆撃へと変更した米軍の空襲の戦略であった。
熊谷に近い群馬県太田市には、日本最大の軍用機メーカー「中島飛行機製作所」があり、陸海軍の戦闘機から爆撃機までここで製造していた。熊谷市内にはその下請けの中小の部品工場が数多く存在していた。そのために空襲の標的になったのだ。戦前に得ていた情報、あるいは航空偵察、捕虜からの情報などで米軍はその熊谷の実態について知っていたと考えられている。
焼け野原になった熊谷市街
終戦の日の空襲
1945年7月に日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が出されたが、その時日本政府はこれを「黙殺」。しかし、8月9日のソビエトの満州侵攻と長崎への原爆投下の翌日の8月10日に「天皇統治の大権に変更がない」ことを条件に日本政府はポツダム宣言を受け入れることを決め、中立国を通して連合国に伝わることとなった。そのため、米軍はB-29による空襲を休止する。しかし、正式なポツダム宣言受託が決まらないまま時間が経過したため、14日には米軍は大規模空襲を再開することとなった。
そして14日深夜、日本政府は、最終的にポツダム宣言を受諾することを決め終戦の詔書を出し、連合国に日本の降伏が伝わった。ただ、ワシントンからマリアナの司令部に攻撃中止命令が伝わったのは、15日午前4時45分のことで、熊谷をはじめ群馬県伊勢崎、秋田県秋田市土崎などへの空襲はすでに終わりB-29の編隊はマリアナへ帰還する途上にあった。
日本も連合国も指導者たちは日本の敗戦が間近であることを知りながら、これらの空襲は行われ、多くの命と暮らしが奪われた。
