山田朗(歴教協委員長で歴史学研究者、専門は日本近現代史、明治大学教授)
「昭和天皇の戦争関与」
❶「昭和天皇は最後まで日米開戦を避けようとしていた」という言説は違う。昭和天皇は41年9月6日の御前会議の時点までは日米英戦争開戦を躊躇していたが、10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されて最終的には開戦を決断した。昭和天皇が当初、対米開戦に躊躇していたのは、軍の示していた戦勝のシナリオが希望的観測に基づくもの(ドイツ頼みの楽観的なシナリオ)に過ぎないと見抜いていたからだった。しかし軍はその後、天皇を説得するために新たなシナリオ(南方の資源地帯を日本が確保してしまえば米英には資源が流れなくなり、長期戦になればなるほど戦況は日本が有利になるというシナリオ)を用意していった。新シナリオには昭和天皇だけでなく他の懐疑派の人びとも説得されている。
❷「昭和天皇は戦争に主体的に関与することがなかった」という言説は事実ではない。記録によれば、大元帥(日本軍の総司令官)として出席した大本営御前会議では活発に発言しており、軍幹部への質問や注意を通じて作戦に影響を与えていた実態も史料から見えてきた。具体的に変えた事例を挙げると、42年のガダルカナル島攻防戦で、航空部隊を現地に送るよう天皇は3回にわたって出撃をしぶる陸軍に督促しており、3度目の翌日、陸軍は派遣を決めている。45年の沖縄戦では「現地軍は何故攻勢に出ぬか」と言って、積極的な攻撃に出るよう要求した。現地軍は持久戦でいくと決めていたが、天皇の意思が現地まで伝わったため中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につながった。天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できる。
❸昭和天皇は軍事作戦指導にとどまらず、「戦争指導」(外交などの政治戦略と軍事作戦を束ねたより高次の指導)も行っていた。43年のソロモン諸島などの攻防で、戦い方が消極的だと侍従武官長を厳しく叱責し、こんなことでは敵国の士気が上がって第三国にも動揺が広がってしまうと言って積極攻勢を求めた。
❹昭和天皇が作戦指導や戦争指導をしたのは大日本帝国という国家の抱えていた構造的な問題(当時陸軍・海軍の対立を調整できるのも軍事戦略と外交戦略の双方を統括しえたのも天皇だけだった)が背景にあってのことで、天皇を好戦的な指導者とみなすのは間違い。戦況の悪化に直面したことで昭和天皇は大日本帝国が抱えた構造的欠陥の深刻さに気づき、自ら動くしかないと考えた可能性がある。19世紀的な前時代の帝国主義の考え方が、戦前の昭和天皇の特徴だった。
❺実態を踏まえれば昭和天皇に戦争責任があったと考えるべき。あれだけの悲惨な結果を招いた戦争において、大日本帝国の軍事と政治の双方を統括できる国家指導者だったのであり、すべての重要な政策決定の場にいたのだから、およそ責任がなかったといえるものではない。
❻東京裁判(極東国際軍事裁判)が始まる前から日本国内では、昭和天皇は平和主義者であって戦争責任を問われるべき人物ではないとのイメージづくり、政府などによって進められた。戦争は陸軍の強硬派が進めたものであって天皇には止める権限がなかったというストーリーをつくることで海軍主流派や外務省・内務省の官僚らは自らを「天皇の側にいたものとし、責任追及を回避できた。その人たちが戦後日本の権力を握っていった。このシナリオを最終的に追認したのが米国主導の東京裁判だった。
❼その歴史(責任を取るべき人がとっていないという巨大な前例)が今も生き続けている。宮内庁が編纂して今から10年前に公開された「昭和天皇実録」も、天皇は平和主義者だったというイメージを強化する内容だった。
❽戦争期の近代日本史が教えるのは、軍を政治的にコントロールすることの難しさである。軍事は軍事の専門家だけが理解できるものだという論理のもと、閉じられたサークルの中で「自己展開」していってしまう傾向が軍事にはあるからだ。昭和戦前期と違って今は一応、行政府が外交も安全保障もあわせて統括できる体制には変わっているが、国民の代表である国会のチェックが安全保障政策に反映されているかといえば、答えはノーである。
❾「拝謁記」(初代宮内庁長官だった田島道治が昭和天皇の戦後の肉声を記録したもので5年前に公開された新史料)に注目するのは、昭和天皇があの戦争のことを「戦後に」どう考えていたのかを、今までにない生々しさで伝えている史料だからである。分かったことは、昭和天皇の中で戦後、「誰がどうやっても戦争の流れを止められなかった」という考えが次第に強まっていったという事実で、田島の耳に最後は言い訳だと聞こえてきたほどだった。陸軍が戦争の牽引者だったのは事実だが、昭和天皇はブレーキの壊れたジェットコースターの単なる乗客だったのではなく、操縦する側だった。ブレーキが壊れていたわけでもなく、実際、天皇の聖断という形で戦争は終わっている。戦前は天皇が国家の主権者で、その主権者が戦後、「自分にはどうしようもなかった」という考えに至っていた。現在の日本では国民が主権者である。再び戦禍に見舞われたあとで「自分にはどうしようもなかった」という総括をまた繰り返すのか。主権者としての選択が問われている。