ippo2011

心のたねを言の葉として

安保特別委員会 1960年5月19日

民主主義が蔑ろにされた日

安保特別委員会 1960年5月19日

 

 

審議打ち切り、強行採決

 午後十時二十五分、本会議開会の予鈴が鳴る。本会議開会の十分前という合図である。

 この予鈴が鳴り終わるころ、安保特別委の部屋で急激に動きが始まった。このときまで安保特別委は、与野党の委員四十五人しかおらず、新聞を読んだり、雑談にふけったり、あるいは窓越しにデモの様子をうかがっていたりした。もう五時間も緩慢な空気が流れていた。社会党は十三人の委員しかのこしてなく、議員も秘書団も議長室周辺に駆けつけていた。安保特別委は手薄になっていたのだ。

 委員長席に座っていた小沢が、突然、マイクにむかって話しはじめた。小沢が、「休憩前に……」といったきり、あとはまったく聞こえなくなった。「休憩前にひきつづき委員会を開催します」といったというが、速記録には「休憩前に……」しか記載されていない。

 以下、当時の新聞報道などを参考に描写していくと次のようになる。

 委員長席には、社会党の委員がつめかける。それを阻止しようと自民党の委員も駆けつける。社会党の委員は委員長不信任案を手にしていたので、それを委員長の机にのせ、「この動議が先だ」とどなる。小沢はあちこちこづき回されながら、議員の人波の中で何やら叫んでいるが、それはまったく聞こえない。自民党の委員は、小沢の周辺にいる委員の手ぶりにしたがって「賛成、賛成」と叫び、そしてやみくもに「バンザイ」と声をあげる。そのあと自民党の委員は、小沢をかかえて委員会室を退場してしまう。退場していったのが、午後十時三十分だった。

 この三分ほどの間に、次のようなことが行われたと自民党の委員は説明した。

 委員長が開会を宣言する。次いで椎熊三郎が質疑打ち切りの動議を読みあげる。まずこれを多数で可決した。そのあと椎熊がいっさいの討論を省略して日米新安保条約、新行政協定、それに関連法案の三案の採決を行なう動議をだした。それを賛成多数で可決した。小沢がそれを受けて、「新条約の承認を求めるの件」「新協定の承認を求めるの件」そして新条約、新協定関係法令整理法案の三案を一括採決することにし、多数でこれを可決したというのである。

 たとえ五分の時間があったとしても、三度にわたってこれだけの採決ができるわけはない。むろん小沢は一方的にいくつかのキーワードを叫んだかもしれないが、以上のような手続きがすべて行なわれたというのは、まず時間的にも無理というものだろう。この模様はテレビでも放映されたが、誰の目にも茶番劇にしか映らなかった。

 自民党はわずかの時間に、質疑打ち切りだけでなく、新安保条約も可決させてしまったのである。まさに策略の勝利であった。むろん社会党民社党は、安保特別委自体が再開されていないのだから、すべての採決は無効という立場をとった。

(『六〇年安保闘争』 保坂正康 p115)