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心のたねを言の葉として

村民73人の集団自決、自責の念で自殺した村長…「その孫だからこそ」満蒙開拓団の悲劇語り継ぐ 劇作家・胡桃沢伸さん  2024年1月24日

村民73人の集団自決、自責の念で自殺した村長…「その孫だからこそ」満蒙開拓団の悲劇語り継ぐ 劇作家・胡桃沢伸さん

2024年1月24日 東京新聞

 

 

 戦時中に旧満州国中国東北部)の満蒙(まんもう)開拓移民として送り出された長野県旧河野村(現豊丘村)の村民の多くがソ連の侵攻時に集団死し、村民を送り出した村長は自責の念に駆られて自死した。一連の悲劇はなぜ起きたのか。村長の孫で医師・劇作家の胡桃沢(くるみざわ)伸さん(57)が28日、東京都三鷹市で「河野村開拓団と祖父と私」と題して語る。(佐藤直子


◆28日、東京・三鷹市で講演
 「幼いころ、祖父の盛(もり)は戦争で死んだと聞かされていた。けれど、近所の子に『おまえのおじいちゃ(祖父のこと)は自殺した』と突然言われたことがあって」。胡桃沢少年は尋ね返せなかった。親にも聞けなかった「真相」を知るのは37歳のときだ。
 一つの記事が地元紙に載った。大戦中に農業移民や青少年義勇軍などとして渡満体験を持つ人に聞き取りを進めていた飯田市歴史研究所に、父が盛さんの遺品の日記を寄贈したことを伝えていた。「君のおじいさんのことでは」と言って友人が記事を送ってくれた。

 1932年、中国に傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国した日本は、農村部などから移民を送り出し、その数は敗戦までに27万人。日米開戦後は、町村単位で地元に残る人と満州に送る人を分ける「分村移民」を推進し、各自治体に送り出し人数が割り当てられた。当時河野村長だった盛さんは分村移民を決断した一人だった。45年春、27世帯、95人を吉林省に送り出している。
 しかし開拓団の成人男性は敗戦直前に徴兵され、村に残った女性や子ども、高齢者73人は、ソ連軍侵攻時に日本人に土地を奪われた中国の人たちに襲われ、帰国をあきらめて集団死。翌年、悲劇を知った盛さんは村民を送った罪責から自ら命を絶った。42歳だった。


◆国策にのまれた祖父、重い事実から学び
 「悩んだ末の決断とはいえ、村民を送り出し、死に追いやった責任を感じて祖父は生きていけなかった」。事実の重さに打ちのめされながらも、胡桃沢さんは事実から学ぼうとした。
 河野村と同じ下伊那内の阿智村にある満蒙開拓平和記念館に足を運び、河野村の集団自決をただ一人生き延びた男性に会った。中国の河野村開拓団入植地も訪ねた。盛さんの日記からは、国策にのまれていく祖父の姿を見た。
 「くるみざわしん」の名で戯曲を発表してきた胡桃沢さんには、日本軍慰安婦など戦時性暴力や、町おこしのために放射性廃棄物の処分場誘致を画策する男を扱った作品などがある。
 戦争の加害や国家の欺瞞(ぎまん)を見つめてきた劇作家は今、祖父の過ちや故郷の悲劇も自ら語ろうとしている。


◆「次の戦争に加担しないため」
 「厳しい言い方だが、祖父は村長として甘かった。国に協力しない者は非国民と非難された時代、国策に従わない選択はなかったと言う人もいる。けれど、僕はその声にうなずきたくないんです」と胡桃沢さん。
 身内の痛みをもあえて語る。なぜか。「次の新たな戦争に加担しないためです。祖父の誤りを語るのは孫である僕の役割。僕が言わなくて誰が言えますか?」
 講演会を三鷹市と共催するNPO法人「中国帰国者の会」の前身は、旧満州に放置された「中国残留婦人」の一人、鈴木則子さんら十数人で1982年、産声を上げた。事務局次長の橋本美緒さんは「胡桃沢さんの講演を通して満蒙開拓とはなんだったのかを考えたい」と話す。
 会場は三鷹駅前コミュニティ・センター。開演は午前11時半(開場同11時)。胡桃沢さんの話のほか、信越放送制作ドキュメンタリー「決壊 祖父が見た満州の夢」の上映などがある。定員60人。参加無料、事前申し込み不要。

 

CⅩⅩⅩⅧ「たまあそび」1996を見る聴く、   『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2024/9/8

CⅩⅩⅩⅧ「たまあそび」1996を見る聴く、   『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ  2024/9/8

  街中、通りで屯す若者たち、バンドの仲間たち、演奏する仲間たち、光、影、色彩、蠢くカメラ、役者たち、演技する人々、これもまた、屯す仲間たちとも、撮影風景、カメラマン、衣装、キャスト、スタッフ、撮影隊という、屯す人々、だが、これらは、全てが、お芝居とも、ドキュメントとも、特に、映画の撮影隊の部分は、撮影風景なのか、セッティング、リハーサル、後片付け、ドラマかドキュメントか、判らない、ハッキリしない、故に、どこにドラマが、屯す若者たちの中に、ドラマが、その中に、中から、役者が、町の雑踏の中から、映画に招かれたとも、映画のテーマは、町であり、通りであり、雑踏で有り、屯す若者であり、その中に、恋が、野球青年たち、室内グラウンド、男と男、手前の男、奥に二人の男、この三人の関係は、カメラの前に佇む男、カメラの方を向いている、奥の二人は、じゃれあっている、バットを尻を突きだした男の尻に、寝た男の股間に、二人はグラウンドの外に、壁際の草原でのキス、抱擁、なめ合い、悶え、これは、ドラマの中か、ドキュメントか、入社の挨拶、上司が紹介、野球青年ですと、立ちあがり、挨拶する青年、拍手する新しい同僚たち、主役の青年が、だが、誰が主役とも、解らない、何時から、ホモセクシャルであるのかと、問われて、監督が問うているのか、カメラは監督自身だろうか、侵入者の青年と主人公、野球、恋、だが、主人公には彼女が、野球場での語らい、二遊間が下手だと、見つめる二人、なんで野球をやめたのかと問う主人公、やはり、恋ゆえ、人間関係、別れ、そして、今、また、この地で、野球と恋、だが、主人公の彼女との姿を見てしまう、追いかけてしまう、溜らない、嫉妬、悲しみ、町、通り、雑踏、車、人々、日常、私たち、生活、ドキュメント、ドラマ、重なり合って、町の中から、ドラマが、そしてまた、ドラマは、町の中に、消えて、映画もまた、屯す若者の中から、現れて、スタッフもまた、監督ともども、撮影が、そして、また、町の中に、消える、通りを歩く野球青年たち、四人が並んで、彼らは、実際の街の青年たち、キャスト達、スタッフたち、判らない、役者が演じた、四人の同僚野球青年の姿、恋が、嫉妬、語らい、球場で、試合が行われて、繰り返される野球の試合の映像たち、二人の語り、小屋の前の二人、何かを球を放るのだろうか、上のバルコニーの娘、受け止める娘、デイトするカップル、こうして、また、上司の挨拶、始まりの新入社員の退職、別れ、挨拶、拍手、二人は海に、浜辺を走る走る、一人佇む坊主の男、二人は、彼の横を通り過ぎて、海の中に、坊主の男とは、誰、走り去ったのは、主人公、恋人だった青年、果たして、全く、違った、恋人の二人かもしれない、佇む坊主の青年とは、あの野球場で、手前に佇んだ男、解らない、奥の抱き合う二人、カメラは、追いかけ、佇む男を捕え、奥の二人を捕え、そして、また、元の位置に、舞い戻って、三人を捕え、関係は、誰と誰、ドラマは、どこに、ドキュメントはどこに、全てはドラマ、たまあそびというドラマ、そしてまた、全てが、ドキュメント、通り、グラウンド、町、日本、音楽、音、言葉、繋がれて、フィルムたち、焼けたロールエンド、そこにまた、繋がっていく、フィルム、メカスを感じます、原を感じます、映画です、シーンごとの、空気です、時空なのですが、何が写っているのだ、在る時代の日本が、まさに、映し出されて、有ります、この日常の中の、わたし、私たち、監督も、カメラもまた、私も、私たちも、この時空の中に、同居しているのです、あそびの時空であり、痛ましい時空でも、悲しみの時空でも、快楽の時空でも、在るのです、この時空たちに招かれて、この時空とともに、外の通りに、雑踏に、歩きだす、わたし、わたしたち、 

子どもを川に流し、女性は声を上げて泣いた 「死が当たり前」の逃避行 旧満州生まれの橋本珠子さん(83)  2023年8月12日

子どもを川に流し、女性は声を上げて泣いた 「死が当たり前」の逃避行 旧満州生まれの橋本珠子さん(83)

2023年8月12日 東京新聞

 

<戦後78年 20代記者が受け継ぐ戦争㊦>さいたま支局・飯塚大輝(29)
 雨がしとしとと降る日だった。「おばちゃんについて行きなさい」。母に言われ、隣の家の女性と川に行った。女性は1歳か2歳になる幼い息子を抱いて川に入り、息子を水面に横たえた。その子は必死に手足をばたつかせながら、下流へ流れていった。女性は川から戻ると母に抱きつき、声を上げて泣いた。

 旧満州中国東北部)の満蒙まんもう開拓団で長野県出身者が入植した黒台信濃村に生まれた橋本珠子たまこさん(83)=長野県飯田市=は当時5歳ぐらいだが、脳裏に今も焼きついている。1945年8月の旧ソ連の対日参戦で、近所の40~50人で帰国を目指し広大な地を歩いていた。成人男性はほとんど徴兵され、父親を含め2人のみ。30人は子どもだった。
 男の子をおぶっていた橋本さんの母が足をけがし、「迷惑をかけられない」と女性が思い詰めた末のことだった。女性は3歳か4歳ぐらいの長男を抱えていた。
 「なぜあんな場面を私に見せたの」。橋本さんは終戦後しばらくして母に聞いた。母は「おばさんを一人で行かせたら、川に身を投げてしまうと思った」と明かした。
 わが子を川に流す、わが子にそれを見せる。最悪の決断の連続。「人が死ぬのは、ご飯を食べるより当たり前だった」。ソ連軍の攻撃や現地住民の略奪を避け、ぬかるんだ茂みを進んだ。道中には、殺害された開拓団や親に捨てられた子どもの遺体が転がっていた。


◆やっとの思いで帰国船に乗り…女性が次々と海に身を投げた
 冬は旧奉天瀋陽しんよう=の収容所で過ごした。夜、鈍い笛の音が鳴る。ソ連兵の侵入を告げる合図だ。ソ連兵は子どもの前でも構わず女性を襲い、銃殺した。
 ある朝、3歳下の妹満津子みつこさんが顔の前で人さし指と親指を近づけて「ちょっとでいいから白いご飯ちょうだい」と母にせがんだ。当時の食料は、死体運びなどの対価として得た穀物ソルガム。願いはかなわず、妹は2日後に病気で亡くなった。
 逃避行を始めてから1年。帰国船に乗った。甲板に出られる時間になるたび、誰かが海へ身を投げた。ソ連兵に妊娠させられ、「家に帰れない」と思い詰めた女性らだと後で知った。住んでいた地区の200人中、帰国できたのは61人、子どもは90人のうち9人だった。
 「人が死んでも感情が湧かなかった」という橋本さん。それでも、心には深い傷を負っていた。長男を産んだ約1年後、何日か続けて同じ夢を見た。子どもが息子を抱いて連れ去ろうとする。子どもは川に流れていった男の子だ。「自分が大きかったら、抱っこして連れて帰れたのでは」。罪悪感にさいなまれた。


◆「戦争で人は人間性を失う」…その経験を今、伝える
 橋本さんは昨年、長野県阿智村満蒙開拓平和記念館語り部を始めた。ずっと依頼を断ってきたが、きっかけはロシアのウクライナ侵攻だった。ウクライナの子どもが戦火を避け、田舎の親族宅へ向かっているというニュースを見た。「あの時の私たちと同じだ」。自然と涙があふれた。
 橋本さんたちは一度、帰国を諦めて集団自決を決めていた。直前に通りかかった日本兵に「生き延びて、この惨状を日本に伝えないと駄目だ」と言われ、踏みとどまった。橋本さんは「戦争で人は人間性を失い、自分の損得しか考えなくなると学んだ。その経験を伝えることが使命」。
 私の前任地は橋本さんが住む県南部だった。多数の開拓団を送り出した地域で、帰国後の苦労もよく聞いた。橋本さんも学校の弁当が用意できず「満州乞食」と言われたという。多くの帰国者が荒れ地に再入植し、今では果樹園が広がる。
 戦争に人生を翻弄ほんろうされ、平和を願う橋本さんたちの存在を県外でも知ってもらいたいと思い取材した。実は、私の祖父も旧満州生まれ。祖父は当時を語りたがらないが、話を聞かないといけないと思った。「伝える」ためには「聞く」ことだ。戦争経験者に話を聞いてみてほしい。
 満蒙開拓団 日本国内の農村の困窮や人口増加への対応、国境防衛などの目的で、旧満州国(1932〜45年)に全国から約27万人が送り込まれた。敗戦後は関東軍に置き去りにされ、ソ連軍や現地住民の襲撃、病気や飢え、集団自決などで約8万人が死亡したとされる。多数の中国残留邦人も生んだ。長野県は県南部を中心に全国最多の3万3000人を送り出した。

    ◇
 ロシアのウクライナ侵攻は1年を超えた。日本でも敵基地攻撃能力の保有や防衛予算の倍増が現実味を帯び、きな臭さが漂う。太平洋戦争終結から78年。戦争の悲惨さを忘れていないか。今年も20代の記者が、過ちを繰り返さないとの思いで戦争体験者を取材した。あの戦争は遠い歴史になり、生の声を聞く機会も減りつつある。その貴重な時間を記録し、次の時代へとつなぐ。

 

次世代原子炉「常陽」 茨城県と大洗町が事実上再稼働認める  2024年9月6日

次世代原子炉「常陽」 茨城県大洗町が事実上再稼働認める

2024年9月6日 NHK

 

国が実用化を目指す次世代原子炉の一つで、プルトニウムを利用する高速炉の国内唯一の実験施設「常陽」について、地元の茨城県大洗町は再稼働に必要な安全対策工事の開始を了解し、事実上、再稼働することを認めました。

茨城県大洗町にある「常陽」は、原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを再び燃料に使う高速炉を開発するための小型の実験炉で、事業者の日本原子力研究開発機構は、原子炉の冷却や事故対策などの安全対策工事を行ったうえで2026年度半ばの再稼働を目指しています。

この安全対策工事について茨城県大洗町は、「常陽」の安全性や必要性を確認したほか、周辺自治体からも異論がなかったことなどから6日、工事の開始を了解しました。

このうち、大洗町役場では國井豊町長が原子力機構の幹部に了解を示す文書を手渡しました。

また、県もすでに了解する考えを文書で伝えたということです。

県と大洗町によりますと、原子力機構と結んでいる協定では、今後、再稼働までに必要な地元自治体の了解などの手続きはないということで、事実上、再稼働を認めたことになります。

原子力機構は、国が実用化を目指す次世代原子炉の一つに位置づける高速炉の国内唯一の実験施設として研究開発を進めるほか、医療用の放射性物質の製造などにも活用していく方針です。

 

大洗町の町長 “工事の進捗状況 情報開示を” 
工事開始の了解を示す文書を手渡したあと、大洗町の國井豊町長は、記者団に対して「事業者には安全・安心を構築するため、責任感を持って日々の事業に取り組んでもらうとともに、工事の進捗状況についても情報を開示してほしい」と話していました。

「常陽」がある日本原子力研究開発機構 大洗研究所の吉武庸光所長は「再稼働に向けてしっかりと工事を進めていくことに注力する」と話していました。

 

官房長官「安全性確保を大前提 実証炉開発を進める」
官房長官は、閣議のあとの記者会見で「『常陽』は再稼働後にさまざまな研究開発への活用が見込まれ、安全性の確保を大前提としつつ、再稼働に向けて機構や自治体と連携していきたい。また、高速炉は、高レベル放射性廃棄物の減容化、有害度低減、資源の有効利用といった核燃料サイクルの効果をさらに高める観点で重要で『常陽』の研究開発の成果も活用しながら実証炉開発を進めてきたい」と述べました。

 

有機フッ素化合物PFAS 沖縄市の地下水 220倍の高濃度で検出 2024年9月3日

有機フッ素化合物PFAS 沖縄市の地下水から国の暫定指針値の220倍の高濃度で検出


沖縄テレビ 2024年9月3日

 

 

沖縄市の地下水から有機フッ素化合物PFASが国の暫定指針値の220倍もの高い濃度で検出されたことがわかりました。

これまでの沖縄県の調査では、沖縄市にある産業廃棄物の最終処分場内に溜まった水や川崎川支流の上流部にある湿地帯で高い濃度のPFASが検出されています。県は湿地帯に湧き出す地下水が汚染源である可能性が高いとみて2024年2月に調査したところ、5つの地点のうち4地点で高い濃度のPFASが検出され、このうち私有地の地下水から暫定指針値の220倍にあたる1リットルあたり11000ナノグラムが検出されました。

高濃度で検出された原因は現時点では不明で、県は湿地帯のモニタリング調査を続け汚染源の把握に取り組むとしています。